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 01. 蕎麦屋事始め 

4000年前中国喇家(らっか)遺跡から出た麺
中国喇家遺跡から発見された4000年前の「麺」の化石
2005年H17年10月13日 朝日新聞朝刊13面 記事

01-01 日本の「そば切り」の所見

 日本のソバ栽培の歴史は五世紀中頃まで遡るといわれる。
 が、現在のような「麺状」になった「そば切り」としての歴史は比較的浅い。
 未だ不明で、数々の初見がこれからも発掘されるのを待ちたい。

慈性日記

 これまで、「そば切り」の初見とされるのは、鈴木棠三氏による慶長年間の文献・「慈性日記(ジショウ)(現在は滋賀県犬上郡多賀町の安養寺に架蔵)」の調査・発見である。

 「慈性」は近江多賀神社の社僧で、1614年(慶長一九年)から1643年(寛永二〇年)までの30年間に渡る日記を記していた。




 その冒頭に近い1614年(慶長一九年)二月三日の条で  
  「・・ソバキリ振舞被申候」
と記述されている。
 そば切りをご馳走になったというが、その書きぶりから珍しがっている様子は伺えず、慶長年間には蕎麦切りが打たれていた事、起源はそれ以前と推測される。

慈性日記拡大

【出典:新島繁・薩摩卯一共編 「蕎麦の世界」柴田書店刊 1985年(昭和60年)9月】
 そして、1992年(平成四年)、長野市の郷土史家・関保男氏によって、
  「定勝寺文書
の中に、ソバキリの記事が発見される。
 定勝寺文書は、昭和三四年信濃資料刊行会発刊の「信濃資料」第一四巻に翻刻し収録されている。 
 前述「慈性日記」から40年遡る。
 定勝寺は長野県木曽郡大桑村須原にあり、1574年(天正二年)二月一〇日より仏殿等の修理工事が始まり、 同作事之振舞同音信衆の条に  
 「振舞 ソバキリ 金永」
とあり、金永という人がソバキリを振る舞った、ことが明らかとなった。
 【出典:新島繁著「蕎麦年代記」 柴田書店刊 2002年(平成14年)】  
 【定勝寺文書 番匠作事日記「同(作事之)振舞同音信衆」に見る「振舞ソハキリ】 ←は「大阪・上方の蕎麦」ー大阪のそば・上方のそばーウェブサイトを参照ください。

 これが2002年(平成14年)段階の最新のそば切りに関する資料である。
 更に、数々の蕎麦研究家等の労作によって古文書からの発掘はあるが、本稿の目的ではないので紹介は省かせてもらう。

01-02 江戸末期から明治にかけての小樽

 文献によれば、和人が神威岬以奥に定住されたのは、1856年(安政3年)以降の事である。
 これより先、1670年(寛文10年)津軽一統志による北海道の行政区域を見ると、松前藩としては、現在の渡島、檜山市庁の行政範囲内までしか充分に目が届かず、その外の土地は大きく二つに分けられ、宗谷を頂点として、日本海、オホーツク海に面しては
 「西蝦夷・上の国」
と称し、襟裳を中心とした太平洋側を
 「東蝦夷・下の国」
と称していた。
 松前藩としては、一粒の米も獲れない本道にあって家臣に対する扶持として、米に代え漁場を区切って俸祿として与え、運上金なるものを得て、財政の基盤としたのである。
 これを「場所制度」と言い、その漁場を支配する武士を知行主と云った。
 しかし、武士の商法と云うか、この「場所制度」の運営は知行主の間では必ずしも円滑であったとは云えず、彼等はより確実に、容易に収入を得る方法として、場所の権利を民間人に委譲し契約により許可料を支払わせ、これを運上金として徴収させ、その代わりに独占を許すというシステムを編み出す。
 これを「場所請負人」と言い、主に江州商人が多かったという。

 かくしてオタルナイの「場所請負人」として、岡田家十一代八十次の番頭・恵比須屋弥兵衞が登場してくる。
 文政4年(1821)のことである。
 ( 博物館年表には岡田八十次も、恵比須屋弥兵衞も出てこない。 恵比須屋では検索1個ある。 『安政05恵比寿屋は銭函より星ポッケに至る道路を開削』と。)
 岡田家は初代を三右衛門と言い、近江八幡町の出身で、慶長2年松前に渡航して来たという豪商である。
 岡田家は以後代々にわたりオタルナイ場所請負として小樽近辺の七漁場を支配、明治30年過ぎ、「大三岡田商店」を解散して小樽を去るまで、商売のためとはいえ小樽興隆のため大きな業績を残している。

 小樽と関西との経済的交流は、実にこの時からと言っても過言でない。
 もともと小樽の地名の源をさぐれば、石狩湾にそそぐオタルナイ川が起源であることは皆様ご存じの通りであるが、この川を松前藩は「オタルナイ場所」とした。
 この場所は。あくまでも鮭中心のためのものでもあり、鮭漁が次第に衰退するに従い、主力は鰊に移り、場所の中心もクツタルウシ(入船川尻)へと移行するが、それ以来オタルナイ場所は東はオタルナイ川を境界に西は於古発川(妙見川)まで海岸線四里三十二町(約19.5Km )に及んだものという。
 やがて道南地方に数年にわたる鰊の不漁が続く。
 このため松前藩は漁民の救済策として、松前の北方、いわゆる上の国、「西蝦夷」への出稼ぎの許可を与える。 
 この結果、鰊の北上と共に漁師が北上して漁に従事し、積丹半島を越えて、オタルナイにも大勢の労働者が入り込むことになった。
 この事を「追い鰊」と云い、今から二百年ほど前、明和、安永の頃からと云う。

 しかし、場所制度のもと請負人が漁業の実権を握り、外部からの自由な入漁なぞ許されない時代である。
 が、当時の漁獲法を以てしては魚介類を取り尽くすことなぞ、当低出来る相談ではない。 「場所請負人」は、これら「追い鰊」の漁民と契約を結び、漁獲物の二割を献上させ自由に漁労に従事させ、労働力の不足を解消し、併せて自らの収入増加を計った。
 これを世に「二八取り」と称するのである。 
 場所請負人にしても、いながらにして二割の増収につながった。
 これら「二八取り」の漁師たちが集団で季節的にしろ神威岬を越えて、タカシマ、オタルナイの場所に集中し生活の場を持ち、小樽開発の基となったことは論を待たない事実である。 
 そして、これらの場所の中心的存在として「運上屋」と云う建物が海辺に建てられていた。 
 これは船で本州から生活必需品等を満載して本道に渡り、アイヌ民族の漁獲した水産加工品や獣皮等との物々交換交易の場で、これにより「場所請負人」である商人は全国を股にこれらの商品を売り歩き莫大な利益を得たものと言う。
 当時小樽近辺だけでも、「運上屋」と称するものは、祝津、高島、クッタルウシ(入船川尻)とあり、このためか、入船川口が小樽発祥の地と誤り伝えられた事実もあった。
 記録によれば文政5年(1822)、   
  ● オタルナイ場所43戸150人   
  ● 高島場所41戸189人
と伝えられ、また約30年後の安政元年(1854)には、   
  ● オタルナイ場所の漁小屋252軒   
  ● タカシマ場所86軒
とあり、これらは全て二八取りの季節労務者が入るために作られた小屋、と考えてよいものである。  
 かくして「オタルナイ」場所を最先端として、毎年春は鰊、秋は鮭鱒と、一場所数十日間にわたり滞留する季節労務者が定期的に道南と小樽近隣を往復するようになり、ある者は冬期間を除いて定住するようになった。
 なかには家族や妻子と別れて出稼ぎに来た男子が多くあったであろう、と容易に想像できる。  
 「忍路、高島及びもないがせめて歌棄、磯谷まで」 と残された恋人や妻や子が、恋人を想い、夫を想い、父を想う心があの哀調あふれる追分節の一節となって、今尚我々の胸をしめつける。   
 これは一つには、幕府が積丹以奥への女性の通過を禁止し、また女性を乗せた船が必ずこの海域で遭難するという伝説と迷信が民衆一般に信ぜられ、  
  「小樽海路にお神威なくば、連れていきたい奥地まで、
   怨みあるかよお神威さまよ、なぜに女の足止めた」
の唄が示すように、女性はお神威さまを恐れ、だれ一人として越えようとはしなかった。  ところが、安政2年のある日、幕府の一役人が妻を帯同して一つの快挙を成し遂げる。  それは、船で神威岬を見事乗り越え、夫婦共々無事小樽に到着したのである。
 当時、松前から小樽まで順風で六日から七日の行程であったという。
 この時の女性が、来樽第一号の女性の和人であった。  
 この噂が遼原の火のように道南各地にまたたくうちに伝わり、噂は噂を呼んで、この年道南の江差、福山を中心に箱館方面からも未亡人を主として船でかなりの女性が上陸して来た。  これらの女性が、勝納川の近くに住み着き、昼間は飯盛りとして働き、軒灯に灯ともる頃から彼女たちの夜の職業に就いたものと言う。  
 この中でも逸品を浜千鳥と云い、客に大いにもてはやされたものとか。
 翌、安政3年幕府は積丹半島通過禁止措置の無意味さを知ると同時にその禁を解く。
 時あたかも国の内外にわたり物情騒然たるさ中、北辺の防備の急務であるのを知り、蝦夷地全土を再び直轄の地とし、積丹以奥での和人の定住を認め、武士を石狩の原野に送る。
 これが明治政府になり屯田兵制度へと発展する。  
 兎に角、ここに来て石狩開拓の拠点として初めて、港として小樽は注目されるようになった。  
 当然の事ながら水産基地として、出稼ぎ人で賑わい、経済の膨脹は堰を切ったように人口の急増現象を招き、急激な発展過程へと進むのである。
 
 間もなく、安政4年(1857)山田兵蔵は信香に永住を許され、日用雑貨商を営む。  これが小樽での商店の開基である。
 また岡田家の恵比須屋半兵衛が自費を投じ、張碓のカムイコタンの峻嶺を崩し、山の上の道路を通じ、金曇町をつくった、と歴史は物語っている。 
 このように、今までの経過でお分りのように、安政時代までは少なくとも積丹以奥の土地には和人で定住する者はほとんどなく、「そば」と云うものの営業は全く無縁であった、と断じてよいだろう。  
 よしんば多少の和人が定住していたとしても、自然条件をはじめとして全く営業の成り立つ環境になかったと考えられるからである。

01-03 歴史に《蕎麦》が登場するのは・・・

 

 小樽を語る前に、全国的な視野から眺めた「そば売り」の確実な文献資料は、
  寛文4年(1664)江戸は浅草寺境内での「玉そば」売り
だという。  
 それほど正確さを要求しないのなら、約700年以上昔、山口県の漢陽寺で僧侶が「そば」を打ち檀家に振る舞ったという記録があり、その作り方や薬味の品々が伝わっている。
 更にずうっと下って天正年間(1573一)大阪「す奈ば」の繁昌の様子は、真疑は別として記憶に新しい。  
 翻って、北海道を眺め我が松前藩に眼を移すなら、道南の開拓に当たり、地理的な環境からしても相当量の「そば」が蒔かれ、収獲されていたことは自明のことであろう。  
 また、オタルナイ場所に出稼ぎに来ていた労働者の出身地は、道南、東北地方のものが大部分を占めていたとすると、なかには原料の「そば粉」を持参し、漁の合間に手慰みに同僚等に「そば打ち」を披露し舌鼓を打った事も、或いはあったかも知れない。
 
 そこで今しばらく本道の「そば」の始祖を尋ねてみたいと思う。  
 それには先ず、早くから開発が進み人口が密集していた松前藩の城下町福山、次いで鰊の大漁にわいた江差に注目したい。  
 福山は、北海道唯一の城下町として徳川の治政下に、政治経済交通の中心地として栄え、最盛期の人口4万人、また江差は藩の漁業の中心地として海産物の取引に経済的な基盤を持ち、その賑わいは「江差の五月は江戸にもない」とその隆盛が、人の口の端にのぼっていた。  
 更に古き良き町、箱館は北方圏唯一の開港場として出船入船で賑わい、本道の表玄関として幕末には既にその地歩を固めていた港町である。
 この福山を中心として江差、箱館を結ぶ線上に「そば屋」または「そば売り」が出現したであろうことは容易に想像ができる。   
 これを裏付けるかのように文献は、

 天明3年(1783)
 松前の「そば」の出来がよく、そば切り・うどんの類がある

ことを告げ、
 文化年間(1804一)
 江差の津花町の福田屋の娘が「そば」を売り、浜小屋に「そば屋」があった

と記され、
 また箱館では
 安政2年(1855)マル玉・石川そば店初代清吉没後、2代清吉(31歳)が家督を継いだ
という書類が残され伝わっている。

「01. 蕎麦屋事始め」の項、終わり


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