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03.小樽蕎麦同業組合の設立

03.小樽蕎麦同業組合の設立

 明治38年9月日露の役後、「小樽蕎麦同業組合」が設立されたことはほぼ確実なことと思われる。
 「同業組合」自体は明治22年以降、各業種毎にぼつぼつ結成されつつあったが、我がそば業界についてのみ考えるならば、恐らく日露戦争そのものが契機となったことは十分考えられるのである。 
 日露の役は言うなれば国運を賭した戦争であった。 
 従って戦時中の原料物資の入手等については、我々が先般の第二次大戦で経験したように、相当窮屈であったことが予想される。
 この事実が業界の団結を呼び、組合結成まで行ったものであろう。

 ここに、三マス河本家の古文書の中に
  「明治38年9月より」
となって、小樽蕎麦同業組合第三区として組合費徴収名簿が発見された。
 会費は月50銭、次にその中の店名を紹介すると、
  ・三マス河本徳松
  ・ヤマ本本間
  ・ヤマシチ堺甚作
  ・カネウエ八木ユン
  ・カネ大
  ・入増・川上昌三
  ・キ一
  ・マル太
  ・朝日亭
  ・ヤマ福・鈴木保
  ・カネ坂
  ・一福
  ・シメ一梅月亭
  ・マル北
となっている。

 こうして、当時の小樽・手宮から小樽・築港までを対称とする時、この第三区なる地域を考えて見るに、当然最終地区なることが考えられる。 
 又、名簿の店名を参考にする時、その地域は入船地区以南を指すことが予想されるのである。
 すると当然、第一区、第二区とあり、組合員の数も相当数あり、30店〜40店の組合加入のそば屋が当時存在したことが、想像されるのである。

 更にこの名簿が、なぜ9月より会費を徴収したかを考える時、一番妥当な考えとして、8月か9月に組合が設立されたことを物語るものでなかろうか。
 そして明治38年以前の記録は見当たらないのである。
 さらにこの13店の中には39年、40年と新規加入の添え書のある店があり、当時の「三マス」の業界の中に占める地位からみても、この38年9月は組合創立そのものの年月であると考えてよさそうである。
 
 ところが、明治35年から大正中頃まで、稲穂町第一火防線(現、緑山の手通り)と国道5号線の交差する角の「ヤマ福・山本常吉」氏の店で働いていた「山本乙松」氏(取材当時、90歳を越える年齢だった)から、師匠の「山本常吉」氏から聞かされた話や自らの体験談を織りまぜた証言を、昭和50年に聞くことができたのである。
 以下は「山本乙松」氏の談である。

 「…組合創設の立役者は、
  ・第二火防線で営業されていた「東家・奥出繁信」氏、
  ・第一火防線で営業されていた「ヤマ福・山本常吉」氏

だった。
 奥出氏は博識と積極性で知られ、山本氏は頑固一徹で通っていてた。
 この二人が手宮の「○泉・石原」氏、色内の「○吉・遠藤」氏、信香の「三マス・河本」氏等当時新進気鋭、やる気満々なソバ屋を誘い組合設立の意図を語り合った。
 目的は、業界体質の強化による社会的な地位の向上、価格の統一による営業の安定、そして何よりも親睦と団結。
 以上の項目を並べ、広く区内の同業者に声をかけるが、題目はいいがどうもと、なお尻込みする者が多く、当の幹部達は「時期早尚」と判断し大同団結は先に延ばし、数人だけの寄合組合を設立し、今後のためにと「東家・奥出繁信」氏が中心になって組合規約作成にあたった。それが明治34年と聞いている。
 それが明治37年、国家存亡にかかわる日露戦争が勃発、戦禍の拡大とともに営業情勢が一変し、組合結成機運が高まり、明治38年9月、小樽蕎麦同業組合が設立され、初代組合長「東家・奥出繁信」氏が推され就任した。」

というのである。
 この年8月、日露戦争が終結し直ちにポーツマスにおいて日露講和会議が開かれ、29日に我が国としては不満ながらも会議の合意が成立した。
 まさに組合の設立はその直後のことであった。

 特に二度の戦争の体験を生かし、経営面において不安材料を少しでも軽減するための一つの方法として同業者同志の団結、組合化に踏み切ったのは時代の要請でもあり正しい選択でもあった。
 自治体もこの状態を歓迎し、業界を指導育成する上で大変役立ったのである。
 この初代・小樽蕎麦同業組合長が、中央通り港に向い手宮線の踏切りの下左側にあった「東家」奥出繁信氏といわれている。

 丁度この頃、明治40年前後、稲穂町中央通り角・元北海ホテル(現グリーンホテル)の場所に「高田屋」と言うそば店が進出する。
 姓は不明だが「ヤマ福山本常吉」氏の弟子で、富岡町にあったた金沢植物園の建物を移設し店舗にしたものと言う。
 この金沢植物園は明治三七年創立され、現在の富岡カトリック教会のあたりにあって、多くの植物のほかに当時北海道では珍しい猛獣類、虎や大猿、本道産の鹿や熊などを飼い、動物園的色彩を併せ持ち、子供達に喜ばれたものであるが、本道の自然条件はその経営を永続させ得ず、惜しくも短期間で閉館を余儀なくさせられる。
 これが本道での名は植物園の開祖である。
 この金澤植物園の経営者・金澤友次郎氏の邸宅部材を、昭和61年移築し、店舗内装部材に使用したのが、静屋通り「籔半」二代目「小川原格」氏経営の店舗である。

 いずれにせよ、組合発足時は恐らく30名一40名であったものが、小樽の急膨張にあわせて組合具も急激に増加していった。

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