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03.小樽蕎麦同業組合の設立

05. 戦争と小樽蕎麦商組合

 大正の末期から続いた未曾有の大不況は昭和にはいるとますます勢いを増し、いわゆる「大学は出たけれど」の就職難の時代を迎えた。
 軍部は満州への進出を企て、遂に昭和6年中国との間に争いを起こした。
 これが満州事変である。
 列強の強い干渉にも関わらず、昭和12年には日中戦争に発展し、昭和16年には太平洋戦争に突入した。
 その間、小樽蕎麦商組合および組合員は、かつてない試練と耐乏を余儀なくされ、国策のため戦争遂行への協力の名のもとに、様々な戦火体制や戦火制度の導入を強いられた。

05-01, 北海道麺類統制組合から小樽飲食麺業組合、小樽蕎麦商組合暗雲の時代

 昭和9年には、全道の麺業界連合会締結の呼びかけに応じ、定山渓温泉で開催された第一回
   「北海道麺業組合連合会代議員協議会
組合長・橋本初次郎氏が参加した。
 連合会小樽地方支会(岩内・倶知安・古平など各支会を含む)の名簿には、小樽部会として70店舗、別枠で行商ラーメンとして名の名前がある。
 昭和15年には、市内の飲食店が統合し、
  「公認小樽飲食店組合」
が発足し、小樽蕎麦商組合はその中の麺部会に包摂された。
 部会長は、朝日屋中井栄松氏である。

 この頃になると物資の欠乏が次第に目立つようになり、営業実績はあがっても原材料を確保することが難しくなっていく。
 昭和16年には「北海道麺類統制組合」が創立され、本部を札幌におく。
 諸原材料の円滑な配給に業界は期待をよせた、この年組合員数、63名であった。
 昭和18年には、とうとう国策の名の下に組合名を
  「小樽飲食麺業組合
と改称させられ、出資組合となり、その資本は戦争遂行のため資金へと変貌していく。

 昭和19年、戦局は絶望的になり、建造物までの疎開が始まる。
 以後、終戦まで多数の店がこの犠牲となった。
 この他にも原材料難と労働力不足等、商売の継続は益々困難となり、やむなく廃業する店が続出。

  昭和20年には蕎麦屋の店舗は、「12軒」を残すだけとなった。

●志ん家の推移
 「井上常一」氏が堺町の問屋街に、そば屋「志ん家」を開業したのは昭和7年頃であろう。
 第二次大戦後は、「増村実」氏が経営、氏は大学出のそば屋として経営感覚も鋭く商売も繁盛していたが、たまたま小樽市民会館建設に際し食堂の経営権を小樽蕎麦商組合の有志と相計らって獲得、彼が責任者として市民会館食堂の経営に参加したが、結局失敗に帰する。
 その責任を取り彼は店をたたみ、札幌に移転する。

 その後を、昭和40年4月1日「大黒繁太郎」氏が経営を引継ぎ現在に至っている。
 大黒氏が、そもそもそば屋の道に入った動機は、氏の前職は牛乳屋である。
 この職業は家族ぐるみの仕事として大変な労働であり、限界を感じていた矢先のことで、同じ家族総動員の仕事なら、そば屋の方が良いだろうとのことであった。

 不幸にして昭和52年4月7日、同居人の火の不始末から出火全焼したが、筋向かいの家屋を買収、新店舗として再建、おりしも小樽運河観光のブームとあいまって、繁盛、現在は子息「大黒正純」氏が後継し、母、姉妹と家族一体で盛業中。

 大黒正純氏は小樽蕎麦商組合青年会第二代会長をつとめ、現在小樽蕎麦商組合地区幹事として活躍中。

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