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03.小樽蕎麦同業組合の設立

06. 戦後の胎動

 敗戦後まもなく、疎開していた組合員も市内に復帰し始め、あっても無きに等しい組合ではあったが、徐々に活動を始めるようになった。

 が、一番の問題は原材料の入手であった。
 配給原料はあまりにも当てにならずもっぱら「ヤミ」原料を頼りにしての営業の継続である。
 作りさえすれば何でも飛ぶように売れた時代で、庶民は食料を求めの耐乏生活のさなかだった。
 そのような折り、原料物資の配給を一手に握っていた
  「北海道麺類統制組合」
の専務が、配給物資の代金をめぐり不正事件を引き起こした。
 この問題を巡り、当時の組合長・浅草軒・久保源次郎氏副組合長・新富屋・午腸申治氏の意見が真っ向から対立した。
 午腸氏は権力を行使する立場にあるものが、組合員が納めた代金を私物化するとはもってのほか、とあくまでも追求する立場をとった。
 組合長・久保氏は、多少そうのような事があっても組合員への今後の配給に対する不安を考えると、目をつぶるべきとした。

 一方は、正義を振りかざし脱会もやむなし、他方は臭いものにはフタ、組合員は寄らば大樹の陰と、お互い意見相容れないまま、ついに午腸氏は同志9名と手を組み脱会。
 新たな組織を結成した。
  「小樽麺類商業組合
と名付けた。昭和24年のことである。

06-01、戦後の胎動

●丸井食堂部
  伊藤貞義氏、昭和21年丸井今井百貨店の食堂の経営を引き受け現在に至る。
 そもそも丸井今井百貨店が色内の店舗から現稲穂町の店舗に移転したのは、大正12年であり食堂を設備したのは昭和9年である。
 最初の経営は花園町の割烹「嬉野」がやり、その後を「現長」が引継ぎ、そばについては伊佐美屋山本氏が生そばとして差し入れていたが戦争のため中断。
 戦後伊藤氏に代わったものである。
 現在、麺関係調理師として働いている「石塚四作」氏は境氏の弟子である。

 伊藤貞義氏は食堂関係の経営のベテランとして小樽の重鎮であり、昭和60年北麺飲組合小樽支部長に就任するが、平成3年逝去。
 現経営者は子息の伊藤譲一氏。
 氏も北麺飲組合小樽支部の飲食部会のリーダーとして活躍、
 平成2年稲穂1丁目再開発事業でリニューアルオープン、
 小樽丸井食堂部・和久と札幌競馬場「くわふじ」の経営者として盛業中、
 平成9年北麺飲組合本部監事に就任、盛業中。
 後、廃業。
 
●富士屋
 藤井進一氏
 中央バス退職後冷菓業を営む。
 緑町「水戸屋・堀江金次」氏の指導を受け、「富士屋」そば店を開業。
 昭和21年11月である。
 初めは冷菓業と併業していたが、後そば屋一本となり、藤井氏の死後、娘敦子さんの夫「坂井三良」氏が経営を引継ぎなかなか繁盛していた。
 が、昭和52年4月坂井氏病にたおれ急逝、後を妻の敦子さんが責任者となり営業中。
 藤井氏、坂井氏共に組合の幹部として活躍。
 特に坂井氏は将来を嘱望されていたものである。
 後、廃業。

06-02、戦後の東家

● 小樽・東家本店
 奥出氏の出樽後、東家ののれんは一時小樽から姿を消す。
 が、昭和26年東雲町にて「藤原泰爾」氏が妙見川畔、元「藪善」の跡に「東家」のそば店を復興する。
 氏は、昭和5年18才にして、釧路市「休み坂東家・高橋久松」氏の店に入店。
 十五年間修行の後、札幌市を経て小樽に来たり、戦争中でもあり菅原建設に入社、平凡なサラリーマンとなる。当時はそば屋の道に入ることなど、考えてもいなかったが、人間一寸先は闇である。
 ひょんなことから昭和26年東家の看板を妙見川畔に出す。

 氏の師匠である高橋氏はそば職人として、「釧路東家総本店・伊藤竹次郎」氏のもとで働く。
 当時、同僚として後子息が札幌駅北口で東家の店を開いた「山田開助」氏と共に、東家の店を盛り立てたという。
 「東家総本店」の印は「井桁に東」であるが、「高橋久松」氏が独立に際し東家から別れた折に「松葉井桁に東」として使用した。
 藤原氏はこれを受け継いでいるのである。
 この印は釧路の高橋氏と、小樽の東家系統にしか使われていない。

 藤原氏は岩手県の出身で、郷土のわんこそばを看板として繁盛する。
 東家の中では異色ある店である。
 また、氏のアイディア商法は一時期小樽のそば業界に旋風を起こしたものであった。
 更に小樽蕎麦商組合入会に際しては、「籔半・小川原昇」氏と共に当時分裂していた組合を一つにまとめる斡旋役として活躍したことは衆知のことである。
 今、八十九歳。まだまだ生涯現役で、この道をつらぬきたいと意気軒昂。
 直営店として小樽グランドホテル前店を経営し、南樽東家、最上町、公園通りに独立した3氏によってそれぞれ東家の系統を形成している。

 後、廃業。

●しぶま(南樽東家)
  渋間ケイ氏
 昭和28年、十八才の時、「東家・藤原泰爾」氏の店に入り、四年間奉公の後、嫁に行くのと同時に「東家」ののれんを貰い、旭川市で開業。
 七年間営業の後、小樽市に帰り、再度藤原氏の店で二年間働き、昭和40年南小樽で独立。
 
 「南樽東家」と名乗っていたが、法人切り替えと同時に「有限会社しぶま」と改称。
 現在の店舗は、元砂場・小山内氏のケイしていた店舗建物で、小山内氏が札幌進出に際し買収移転改築したものである。
 現在は、渋間宣二氏の経営のもと盛業中。
 宣二氏も永らく小樽蕎麦商組合役員として貢献している。

●花園銀座街東家
 小林国雄氏。昭和27年、藤原氏の「東家」に入る。
 昭和42年、公園通りにて独立。
 現在は花園十字街、水天宮側角に移転オープンし、盛業中。
 小樽蕎麦商組合監査役として組合の重鎮をなす。

 後、廃業。

●最上町東家支店
  板坂次郎氏。
 昭和36年藤原氏の「東家」へ入り、十三年間余奉公の後、昭和49年10月最上町に東家支店として独立。
 後廃業。
 

06-03、稲穂町の蕎麦屋

●籔半(やぶはん)
  「小川原昇(あきら)」氏創業。
 「籔半」は、小樽駅前(現、長崎屋国道側角)の「うさぎ屋」もなか屋の建物で誕生した。

 労働基準監督署労災課長から転出し、戦後の北海道飲食業界に多数の人材を輩出した「小樽・中央ホテル」の支配人をしていた小川原昇氏と、映画館・電気館等興業会社経営の堀江氏の二人が「うさぎ屋」の無尽に入り、夜逃げされる。
 小川原氏、堀江氏が380万円でこの店を買収。 小樽駅前に「ニュース映画館」を計画したが実現できず、食堂経営に切り替え準備にかかった。
 店長を雇い、資本金百万の株式会社を作り、食堂の経営を企画、両国の職人新田氏を雇い、そば屋「籔半」と名付ける。
 昭和29年12月20日華々しく開店。
 昭和30年3月、店長が発病、会計を整理するが、意外にも放漫経営のため僅か三ヵ月半で二百万以上の借金があることが判明、株主総会を招集して前後策を講じた結果、小川原氏が経営を委任される。

 このため小川原氏は中央ホテルを辞任、「籔半」の再建に全力をかたむけ、当時の出資者に一年半で出資金百万円を返済、と同時に赤字の原因となった仕入れ先を全部変更。
 昭和31年7月、正式に小川原氏が籔半代表取締役社長に就任する。
 営業は新田氏をチーフとして続けると同時に、小川原氏は「籔半」を名乗る以上東京のやぶ系統の店の技術を導入することを考え、その年9月自ら上京、鰹節問屋の紹介で上野の「藪そば」に入り、二十日間仕事を見習う。
 その後、一週間に渡り連日神田の「藪そば」堀田氏の店へ通い「そば」を試食、その外、手当りしだい有名店の「そば」を食べ歩き「蕎麦屋」の経営につき、勉強する。

 帰樽後、両国から水木氏が入店、新田氏から「そば打ち」の技術を習う。
 小川原氏自らも閉店後こっそりと何度も失敗を繰り返しながら、そば打ちの技術を習得したものという。
 このわずかな東京時代に、当時「日本麺類業団体連合会」副会長であった加藤学氏と出会い、北海道の常任理事を任命され、日麺連の北海道に於ける基盤の確立とその拡大を義務ずけられるのである。
 当時小樽の組合が二分されているのを知り、「東家・藤原」氏と共に組合再統一に尽力、昭和33年、再統一と同時に小樽蕎麦商組合に加入。
 幹事、副組合長、昭和44年第12代組合長を歴任。
 北海道全調理師会小樽支部長にも就任。

 氏の経営手腕と組合の運営能力は抜群で、関係組合に残した功績は多大なるものがある。
 監督署労災課長の経験を生かし、組合に定休日制定・社会保険加入・労働保険事務組合を導入し、労働条件の向上に努め、昭和43年北海道麺類飲食環境衛生同業組合が設立されるのであるが、函館の下町氏と共に全道を奔走、北麺飲組合副理事長に就任、その生みの親といっても過言ではない。
 昭和49年小樽駅前再開発事業により、現在の静屋通りの割烹・「日の出」跡を購入、昭和60年2月、小樽蕎麦商組合年次総会で更科・加藤三郎氏を後任組合長に選出し、翌日、61歳で急逝。
 
 現在は、子息「小川原格」氏の経営で、稲穂町静屋通りに本道を代表する最も古典的で近代的な店舗を持ち盛業中である。
 「小川原格」氏は小樽蕎麦商組合労働保険事務組合事務局長、北麺飲組合小樽支部幹事長、北麺飲組合本部常務理事を務め活躍中。
 URL: http://www.yabuhan.co.jp/

●たかはし屋
 高橋高男氏創業。
 昭和13年から緑町で菓子屋を経営していたが、戦時中応召、奉天で終戦。
 昭和21年10月、稲穂町中央市場にて飲食店を営む傍ら菓子等も売る。
 昭和22年、自己流で家庭用の製麺機を用い苦労してそばを作り販売することから開始し、そば屋としてスタート、昭和37年頃から弁当の販売も併せ行う。
 高男氏氏も組合幹部として活躍されたが高齢で隠居され、函館の調理専門学校を卒業した2代目子息・高橋茂雄氏は、よりそば屋と弁当販売の両立を徹底化し、盛業中。
 茂雄氏は小樽蕎麦商組合青年会2代目会長を勤め、後、急逝した三マス支店・宮村次郎氏から引き継いだ小樽蕎麦商組合会計という重職を永年にわたり担い、現在も活躍中。
 
●かどや
 向川ハギ氏
 前職は畳屋であったが、昭和23年稲穂町の菓子材料店マル一市江商店より教えを受け現在地・国道5号線沿いの三角市場で食堂を開業、創業当時はお焼き屋もかねたという。
 当初、麺類は「ヤマ安安藤」氏より仕入れたものである。
 場所がら早朝からの客が多く、三角市場へ出入りする納品業者や買い物客にも愛され、現経営者・山下恵子氏で3代目となる。

 後、廃業。

●両國 
 小林幸平氏創業。
 新潟県新潟県中蒲原郡出身、明治30年12月七日生まれ。札幌市狸小路の小間物や小林吉四郎の養子となる。
 明治40年札幌大火の際焼け出され、東京に行き吉四郎氏は薬局を開業、幸平氏は大正7年22才の時、明石市の割烹料理店、次いで姫路の全勝という店で始めて手打ちそばの修行をする。
 その後、転証(転出証明、親方の紹介状)で下関、八幡、福岡と転々し、長崎の仕出し屋に勤務、大正15年独立のため一度東京に帰る。
 この時親は、神田から両国の松坂町に居を構えていた。 
 当時、樺太が景気も好く、面白い処だと聞き、下見のため樺太に渡り、そのまま居着いてしまう。
 最初、豊原の三輪という店で職人として入り、一年勤めた後、昭和2年年31歳で独立。豊原で初めて「両国」の看板をあげた。
 この時は、そば粉の製粉と製麺業で卸が主であった。
 その後、真岡、大泊に支店を出し、昭和3年結婚。
 昭和22年7月小樽へ引き上げ、23年7月妙見川畔に両国ののれんを出す。
 当初は肉うどん専門店として手打ちで客に出し、酒も置いていた。
 たまたま近くにあった「カネ吉大崎製粉所」の大崎市次郎氏が時折飲みに来、
 「これだけうどんが出るならそばを売ったらどうだろう。」
と持ちかけられ、幸平氏は、「こちらの望み通りの品質の粉を続けてくれるんなら」と条件を出し合意に達し、手打ちそばを始めたものである。 
 差し当たり道具は手宮の「マル泉」にあった新しいセイロ類を買い入れ、ここに終戦後物資の非常に遍迫した中で、更科粉による手打ちそばが売り出され、市民の間に大変な評判となる。
 大崎製粉所の話によっても、当時のそば粉消費量、最高の日で十袋。常時2袋が普通であったという。原料難の時代更科粉を続けるということは粉屋にとっても大変な作業だったらしい。しかし順調に進んでいる商売に思いもかけない障害が現れる。

 それは命の綱とも思われる妙見川からの通路を私有地であるがためにふさがれるという事態に立ち至るのである。この問題で長い間の裁判沙汰になり、この結果として両国は昭和30年4月小樽駅前に店を出し、子息・「小林幸雄」氏の経営となる。

 その後、小樽駅前再開発事業のため、昭和50年4月長崎屋1Bで「そば処両国」として開業。
 更に昭和58年、「幸雄」氏念願のかわら屋根の純和風建築(欄間は江波より取り寄せ)書院造りの贅沢な空間の「両國塩谷」店を開業、長崎屋の店は「両國駅前店」として婿・「渡辺利之」氏経営にゆだねる。
 平成5年第14代小樽蕎麦商組合長就任、「和」をモットーに組合役員会の世代交代を図り、平成9年宮下氏にバトンタッチ。
 子息・小林幸造氏を塩谷店長にし、悠々自適。
 渡辺利之氏は(株)両國社長として盛業中、
 氏は宮下組合長を支える小樽蕎麦商組合幹事長。
 尚、平成15年、渡辺氏は「蕎楽ワタナベ」を設立、「両國分店」としてのれん分け独立し、塩屋店は「両國本店」として小林幸造氏が代表取締役に就任。
 両店とも盛業中。

●両國と職人の派遣
 両国の店自体は勿論であるが、見逃してならないのは従業員が市内そば店に与えた影響である。こころみに述べてみれば、
 入船町富士屋へは新田松蔵、宮崎鉄男、青山栄輔、滑川隆と四名。
 奥沢の高田屋本店へは内田、毛利武治
 籔半へは新田松蔵、水木勝男、伊藤力雄、佐藤勝美
 東家本店へは宮崎鉄男
 伊佐美屋本店へは笹島輝男
 白龍(戦後中央市場の辺りに出来たそば屋)へ新田松蔵、内田
 「かねま」へは、新田松蔵
 「すみよし(えびすやの前身)」へは、宮崎鉄男
 日野屋(本田沢)は居抜きのまま新田松蔵氏が経営。
 山形屋は青山栄輔が経営、この店は最上町で富士屋の藤井氏の世話で独立したという。
 越中屋滑川隆、この店は手宮三徳の近くで独立。
 三門、朝里十字街新田松蔵氏が経営。
ざっと以上のようである。

●かすり
 昭和31年10月、花園町第一大通り学校通りに近い場所で開業。
 もっぱら土鍋うどんを売り物に、市民の間にかなりな評判をとった店である。
 創業者・山本静枝さんは、並木凡平主催の青空詩社口語歌壇の一員として現代短歌を良くし、歌集を出し、文化祭に小樽市長賞を受賞した経験を持つ文化人ででもあった。
 子息・山本恭輔氏が新店を開業、現在に至っている。

●砂場
  小山内氏。昭和28年稲穂町産業会館隣に開店。
 翌29年南樽方面神野商店向かいに移転するに際し、入船町妙国寺の坊さんに見てもらう。
 坊さんは、南小樽への移転を薦め、決意を固める。
 最初は店の裏側を喫茶店に貸し、商売は順調にいっていたが、札幌市への進出の希望やみがたく、昭和40年砂場の店を渋間氏に売却、札幌市立病院向かいにそば屋を開店、一茶庵と言う。
 しばらく営業の後、札幌駅前センチュリーホテル地下に「霧の下」なるのれんで盛業中である。

06-04、奥沢地域の蕎麦屋

●丸一食堂
 段坂兵衛門氏創業。
 昭和10年札幌市で屋台のラーメン屋を始める。
 良く11年来樽、開運町に落ち着き、屋台のラーメン屋となる。昭和13年には一年間だけではあるが、妻とくえさんが屋台を引き、夫婦別々に二台の屋台を用いて資金をため、当時餅屋であった若松町の現在の店を三ヵ月の滞納家賃と共に買い取り、開店に至る。
 兵左衛門氏はそば打ちの技術を人から聞き、自分で見て覚え、昭和15年よりそば屋として繁盛させ、氏亡き後、奥様の「とくえ」氏が営業を守ってきたが、後廃業。

●高田屋
  戦中から戦後にかけ金物屋、冷菓業と推移してきたが、そば屋が良いということで、そば屋に転業。昭和29年である。
 開店当初は、両國の職人新田氏が入り、「大島輝男」氏が指導を受ける。
 間もなく新田氏に代わり、札幌から出た職人(氏名不詳)が四、五年指導し、営業も順調に繁盛していたが、不幸にも昭和五十二年二月火災に会い全焼、諸般の都合により廃業やむなきに至る。
 店主・外山ミサ氏。

●高田屋支店・高田屋若松店
 大島輝男氏創業。
 高田屋そば店創業以来、独立まで引き続き勤務。
 昭和41年4月奥沢三丁目に高田屋支店として独立開業。
 氏は組合幹部として活躍、現在は廃業隠居され、子息・真隆氏が昭和53年高田屋若松店を開業、小樽蕎麦商
 組合青年会10周年記念大会時の青年会会長を務め、現在も小樽蕎麦商組合地区幹事として活躍中。
 後、廃業。
 
●丸美家食堂
  大平政司氏創業。
 小樽築港駅前にて「マル太大平」として、最初は屋台のラーメン屋としてうぶ声をあげたのが、昭和の始めである。
 後、店を持ち経営を続けていたのだが第2次大戦中に廃業、琴似へ疎開。
 終戦後、昭和26年奥沢町の現店舗である「丸美家そば店」を買収、大平トシさんがマル大ののれんを廃して、丸美家の看板をそのまま引継ぎ現在に至る。
 大平トシ氏から今日は木ノ内圀夫氏が後継として盛業中。 
 氏は小樽蕎麦商組合地区幹事として活躍中である。

06-05、手宮地域

●三徳
 鈴木庄六氏創業。
 そば屋になる前は手宮能島通りで天ぷら屋を営業。
 客の要望からそば屋を始め、場所がら素人ながら結構繁盛したため、昭和6年現在の場所に店舗を新築したものである。
 庄六氏の死後、夫人の「チヨ」さんが経営を続ける。そ
 の前に柳本徳蔵氏が夕張で両親に死なれ、鈴木氏に引き取られチヨさんと姉弟のような間柄で育てられ、後、柳本氏は東京に出る。
 チヨさんの死後、一時チヨさんの娘の子・鈴木秀三氏が営業を継いだが、二年ほどでやめ、「柳本徳蔵」氏がその後を引き受け、商売を続けて来たが、有限会社に組織を替え、代表取締役は長男「柳本茂」氏である。
 氏も組合役員として活躍され、昭和54年札幌西区24軒に移転、「三徳」として盛業中。
 現在も小樽蕎麦商組合会員である。
 小樽三徳は土井直義氏がのれんを購入、その後「笹川 修」氏が平成9年に「三徳」ののれんを継承し、現在も小樽・三徳として盛業中。

後、廃業。

06-06、こうして、戦後続々蕎麦屋の新規開業は続いた。

 昭和18年、国策の名の下に創られた、
  「小樽飲食麺業組合」
と戦後昭和24年に分裂した
  「小樽麺類商業組合」
の二つの同業の組織が並立する中で、昭和26年妙見川畔に東家・藤原泰爾氏が、昭和29年12月には小樽駅前に籔半・小川原昇氏が呱々の声をあげた。

 この小川原氏が開業し組合に加入しようとして、驚いた。
 組合が二つあり、それも元は一つだったという。
 小川原氏は、藤原氏と語らい組合再統一の機会を伺う。

 昭和32年春、久保・小樽飲食麺業組合長が病に倒れ、同年の役員会では小川原・藤原両氏の再統一の提案を取り上げ、組合再統一を決定。
 午腸・小樽麺類商業組合長も今は異存はなく、昭和33年1月、海陽亭にて
  「統一総会」
を盛大に開催した。
 ここに戦争中の遺物「小樽飲食麺業組合」という借り物の衣装をかなぐり捨て、
   新生「小樽蕎麦商組合
が創設された。
 新組合長は、「日の出屋・来島豊次」氏である。
 この時、加入組合員数は42軒である。

 
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