小樽蕎麦屋ルーツ探訪 小樽の蕎麦屋百年 貳
02.小樽の蕎麦屋の始まり
02-01.小樽最初の蕎麦屋、「米山」
以上から、小樽の土地に、かつぎ屋台も含め「そば屋」と名の付くものが出現したのは。安政以後の事でなければならないだろう。
しかし、安政3年から明治元年まで凡そ12年、その間に「そば屋」が出来たとか、あったとか云う記録は浅学の故か見当たらない。
可能性を考えるなら、前記「金曇町」の女郎屋の中にそばを商う者がなかったとは言い切れない。
この明治元年5月18日、榎本武揚らが箱館の五稜郭で白旗を掲げ、最後まで抵抗した会津藩も遂に力尽きて降伏した。
明治維新後間もなく幕府の脱走軍が全道を占拠し、明治元年12月も晦日、小樽に来た。即ち、幕府の衛鋒隊と彰義隊の一部、合わせて数十名が龍徳寺、正法寺に駐屯したという。
翌2年3月には、まず衛鋒隊が退樽、5月には彰義隊が出樽、当時これらの兵士による住民からの略奪もあった。
この会津藩の武士たちが北海道移住を許されて、明治2年9月二度にわたり東京から汽船で小樽へ、家族を含め計444名が開拓のため上陸してきた。
この開拓団が、当時新たに出来た兵部省と開拓使との軋轢の間にはさまり、入植地がきまらず、結局兵部省の計画が実践されず、政府の無能もあって路頭に迷う破目になった。
更に、明治3年3月兵部省が引き揚げ、後はこれら元武士たちは斗南藩に引き渡されたが、藩は財政困難の故と云って、一人一口南京米で七合しか支給せず、従って土方になる者、日雇いになるもの、その他種種の職業に就いたが、何れも慣れぬ仕事故、大変苦労した。
余談ではあるが、これらの開拓者が明治4年余市に入植、山田村黒川村を切り開き、後のリンゴ栽培の素地を作るのである。
この談話の中の技楼、飯店などは当時金曇、新地町が中心であり、以後急速に信香町やその周辺地区へと広がっていく。
初めて人口の統計として現れるのが
慶應元年、小樽の世帯数314、人口1143人。
明治元年、世帯数444、人口2230人。
小樽高島明細書によれば、明治元年2月の人口、永住156戸、564人、出稼80戸、215人、合計236戸、779人であるが、殆ど信香・勝納の数字である。
明治2年に後志国小樽郡となり、翌3年4月には、信香、信香裡、金曇、芝居、新地、土場、勝納、山之上の8ヵ町を開いて「町並み」をつくるに至った。(町並みとは町に準ずる自治体のことで先に慶應元年すでに村並みとなり場所制度を渡って、村に準じた形で自治体制をとっていた。)
当然そば屋が存在したものとすれば、この地域内になければならないはずである。
調査の結果、そば屋を一件発見したのである。
小樽市図書館蔵、明治初年の小樽の勝納から入船に至る見取図の中、芝居町の中程に
「米山そば屋」
と云うのがあった。
勝納の海岸から、金曇町、新地町と続きその延長線が芝居町である。
芝居小屋「星川座」があったので名付けたという。
わかりやすく逆に山側からたどれば、現在の国道、奥沢十字街から勝納川に至る中間のあたりから海側に延びていた六間幅の道路の両側を芝居町というわけで、その中に一件だけ「そば屋」として明瞭に書かれていた。
この地域には僅かに料理屋がニ、三件散見されるだけで、金曇町から新地町にかけては両側に軒を連ね女廊屋が並び、往時の繁栄振りを図面の上からでも偲ぶことができるのである。
この図面の道路、家屋の密集状態からしても、小樽の都市形成は、まず勝納川口を中心として人家が密集して都市化し、ついで色内・手宮地区が桟橋の造成や海官所(後の海関所、船改め所)の開所によって物資の集散が活発になり、この地区に人家が定着し始めたものと思われる。
何れにしろ、明治の初めに既にそば屋が存在した確たる証拠として「貴重なる古地図」、と言えるのである。
この図面は、慶応2年に作られたものが基本になり、その後加筆され、最終的には明治10年頃の現状が描かれている、という。
恐らくこの古地図に記載されている他の施設の開業年度から類推し、この「米山そば屋」は遅くとも明治5年以降に開店したものだろう、との識者の意見である。
この芝居町の「米山そば屋」については、現在のところ他には何の知る手だてもない。
図書館に問い合わせてみたが、上記古地図の所在は不明とのことで誠に残念至極である。
当時の小樽の状況は、小樽商工会議所がホームページにアップしている「小樽商人の軌跡」で知ることが出来る。
以下は、小樽商工会議所ウェブサイト(←リンク)に掲載されてる「小樽商人の軌跡」・・・を転載し、安政から明治初期の小樽の様子に理解を深めて頂きたい。
◆安政期の小樽
このころの小樽を訪れ、挿絵付きのルポルタージュをものしたのが、北海道の名付け親とされる松浦武四郎である。
『東西蝦夷山川地理取調紀行』
の表題で出版した西蝦夷日誌第四編に、安政3年のヲタルナイの現状を次のように描写する
出稼漁夫の家が12軒あるアリホロ(有幌)、13軒のノブカ(信香)を過ぎて、運上屋前から弁天社の後ろを回り、浜伝いに勝納に来ると橋が架かり人家が多い。この辺では1軒で31人50人と大掛かりに出稼を雇う番屋が続く。
番屋に板作りの倉や稲荷社があるアツトマリ(厚泊)やクマウシ(熊碓)アサリ(朝里)を通り、さらに人家が続く海岸を行く と、カモイコタン。─
「弁天社より眺望」の説明付き、中央に大木が2本枝を広げる挿絵は、遠く石狩湾越えに暑寒別岳から雄冬岬を望み、札幌側の右手には舟泊がある朝里、左手はヲコハチ河口と手宮に数隻の帆船が停泊する。立岩がある海岸に運上屋が建ち、その奥に勤番所と、当時の模様が鳥瞰図で詳しく描かれる。( 図1)
もう1枚。松浦武四郎から3年後の、安政六年のヲタルナイを描く絵が、『100年の小樽』(市1965年発行)に載っている。
秋田藩士、松本吉兵衛の『蝦夷地旅行日記』から、との説明が付く。
右手前に大きな立岩が3本海中から飛び出しており、木柵に門構えがある運上屋の後ろが御用所。左側はようやく町並みがそろい出した小樽市街だ。屋根の波が続く先に寺の高い建物がそびえ、港町に付物だった遊女街のコンタン小路の文字も見える。(図2)
小樽史談会編『写真集小樽』(国書刊行会、昭和54年刊)の巻末付録1に
「 原図は慶応2年以降に作られた」と、説明が付く「小樽最古の家並み見取り図」が載る。
村並になった年であり、これほど詳しい町の地図はほかに見当たらない。
しかし、歴年加筆したらしく「明治5、15年以後のものが同記されている」、と言う。
図の出処が明記されていないので論評の範囲外だが、道路沿いの家屋まで記入される。
図3はその一部。勝納川沿いの金曇町にかなりの家が集中しており、水天宮の丘の下に立岩の位置が示されている。
以上は、小樽商工会議所ウェブサイト(←リンク)に掲載されてる「小樽商人の軌跡」から・・・・
追補01. 2001年小樽蕎麥商組合創立100周年以降に判明した小樽の蕎麦屋の初出!
2018(平成30)年2月追補 by 籔半・小川原 格
《1.「米山そば屋」の位置の特定》
《2.越崎宗一地図の再発見 》
・・・その「米山そば屋」が記載された小樽古地図を小樽市総合博物館学芸員が再発見してくれた。
小樽商大副学長・江頭進教授が、その紹介を前述した
フリーペーパー「小樽チャンネル2017年1月号(通巻第14号)」
で寄稿してくれたのだった。
早速、小樽市総合博物館・石川直章館長に無理をお願いし、その「米山そば屋」が記載された古地図スキャンデータを特別見せてもらえることになった。
実物のその古地図には、地図名称も記載されていないし、横幅約2m以上はある大変大きな古地図だった。
街並みの1軒1軒の家の名前も毛筆ではっきり読める地図だった。
ある意味、実にいい時代になった。
宮村一郎氏が調査し始めて「米山そば屋が記載された小樽古地図」と出会った昭和四〇年代はまだIT時代ではなかった。
どんな大きな地図でも、複写か写真撮影しなければ持ち運び出来ず、自宅で落ち着いて見ることは出来なかっただろう。
しかし、今のIT時代、PDFファイルで頂きそれを画像ソフトで拡大して毛筆の古地図を一軒一軒読み取ることが出来る時代になったのだから。
左・札幌方向は熊碓(現・東小樽海岸)から右・祝津方向は色内石切山を越えて手宮までの地図だった。
この「越崎宗一地図(明治10年頃)」を上下反転すれば、前項で紹介した小樽商工会議所「小樽商人の軌跡」に掲載されてた「図3」の地図の原典であったことも、わかる。
北海道でも著名な小樽の郷土史家であり、小樽運河を守る会初代会長であった故越崎宗一氏が、慶応2年以降に作成された原図を和紙で複写し、更に市内の古老からのヒアリングで歴年加筆されてきた「越崎宗一地図( 明治10年頃)」の小樽地図・・・。
「原図は慶応2年以降に作られた小樽最古の家並み見取り図」
村並になった年であり、これほど詳しい町の地図はほかに見当たらない。
しかし、歴年加筆したらしく明治5、15年以後のものが同記されている」
と前項で紹介した小樽商工会議所「小樽商人の軌跡」で紹介されていた地図が、この「越崎宗一地図明治10年頃」の部分地図だったのだ。
小樽蕎麦業界が待ち待った発見だった。
小樽市総合博物館の学芸員の皆さんの調査のおかげで明らかになった。
今は、高齢で長年病床に伏しておられる三マス入船蕎麦店店主・宮村一郎氏に、この朗報をとどけ、見せてあげたいものだ。
《3.「米山」ソバヤはどこか? 》
さて、肝心の小樽の初出「米山ソバヤ」はどこにあるのか?
小樽商大副学長・江頭進教授寄稿の、フリーペーパー「小樽チャンネル2017年1月号(通巻第14号)」の「オールド小樽勝納川下流域」寄稿から見てみよう
江頭教授は「越崎宗一地図明治10年頃」の勝納川下流域を拡大し、主要施設名を加えてくれている。この勝納川下流域の拡大図の上部に、白抜き文字で「米山ソバヤ」と表示している。
更に拡大しよう。
約四〇年前からこの「米山ソバヤ」の存在を確信しながら、その記載されている地図すら特定出来ず、ましてや営業場所も特定出来ずにきた三マス入船蕎麦屋店主・宮村一郎氏。
氏は、これを見てどう思うだろうか。
「原図は1865(慶応2)年以降に作られた小樽最古の家並み見取り図、
村並になった年であり、歴年加筆したらしく1872(明治5)年、1882
(明治15)年以後のものが同記されている。」(小樽商人の軌跡)
小樽商工会議所「小樽商人の軌跡」の執筆者は、明治5年当時の小樽の街に新設・設置された施設を参考に、「米山ソバヤ」の年代特定をしているのであろう。
これで、やっと「小樽の蕎麦屋の百年」刊行時に宿題とされた、小樽の初出・「米山ソバヤ」の所在と年代が、二〇年の時を経て判明した。
《4.「米山」ソバヤを更に遡る小樽の蕎麦屋の初出、新発見! 》
さて、上記までは2017(平成29)年の話である。
それが、一年後の2018(平成30)年1月、更に新発見が公表された。
市内のNPO歴史文化研究所刊の「月刊小樽學 2018年1月号 通巻16号」の【博物学 No95】で、小樽市総合博物館館長・石川直章氏が、
「小樽蕎麦屋考ー信香裡町 蕎麦屋『鳴海や』ー
を寄稿された。
わずか一年前に、小樽の蕎麦屋の初出「米山ソバヤ」を、越崎宗一地図(明治10年頃)から発見してくれたのに続き、 又、小樽市総合博物館がやってくれた。
小樽の、菓子文化研究の途上でこれを発見していた博物館学芸員の「櫻井美香」女史。彼女は、これまで文章では菓子中心に発表されてきたという(口頭発表ではすでに発表済み)。
それを蕎麦屋というジャンルで、博物館・石川館長が「小樽蕎麦屋考」として紹介された。
いずれにせよ、小樽の庶民の文化や歴史をこのように調査研究してくれる学芸員諸氏に感謝です。
その「櫻井美香」女史が、小樽の菓子文化研究で「当別町教育委員会が所蔵する小樽在住だった教育者の日記」を調査していて、発見してくれました。
小樽最初の教育所(のちの量徳小学校)の初代教授(校長)の「斑目貫一郎(まだらめかんいちろう)」の日記:総称・斑目貫一郎日記、その明治四年部分「填海(日記)」 にあった!!
小樽市総合博物館運河館で2017/12/23〜2018/4/5まで開催の「トピック展・虚像から生まれた名品ー小樽のニシン蕎麦」で展示されている鵙目貫一郎日記。
明治4年の「填海日記」上に「鳴海ヤ蕎麦ヤ」が記載されている箇所(赤矢印)。
填海日記・1871(明治4)年10月17日の項に、
「同日一本、前隣、鳴海ヤ江」
とあり、同年11月27日の項に、
「日暮向隣、鳴海ヤ蕎麦ヤヨリ茶飯重詰贈ラル」
と記載されている。
これにより、明治4年10月17日「以前」から、小樽に「鳴海ヤ蕎麦ヤ」が存在したことが判明した。
残念ながら填目貫一郎日記には地図などは記載されていない。
が、日記の他の項から信香裡町に居住していることが記載され、さらに「向隣」に鳴海ヤ蕎麦ヤがあると記述されている。
それを、前項「02-01-02」の 《2.越崎宗一地図の再発見 》の越崎宗一地図明治10年頃から見てみたのが上記拡大図。
拡大図右上に填目貫一郎所長が勤務する「教育所」があり、新地町・土場町と隣り合う「信香裡町(拡大図中央あたり)」に居住し、その住居の向かい隣に「鳴海ヤ蕎麦ヤ」がある、という。
残念ながら、越崎宗一地図明治10年頃の信香裡町をいくら見ても「鳴海ヤ蕎麦ヤ」という表記はない。
判明したのは以上だが、約四〇年前から昨年までの
●明治5年初出の「米山ソバヤ」
が、越崎宗一地図明治10年頃で場所が特定され、更に、それを1年遡る
●明治4年初出の「鳴海ヤ蕎麦ヤ」
が填目貫一郎日記によって判明したことに、かわりわない。
※月刊小樽學、シリーズ博物学95「小樽蕎麦屋考ー信香裡町 蕎麦屋「鳴海ヤ」」を版元、著者の了解を頂いて上記にアップした。クリックすると拡大画像が開きます。
- イチイ(井桁に一):色内町:1912(大正元)年
- カネサカ(曲がりかねに坂):1919(大正8)年
- 珍田蕎麦屋:緑町翁湯付近:1924(大正13)年
- 大バカ盛五銭蕎麦:稻北十字街から色内川下:昭和初期
などの市内の蕎麦屋が、稲垣益穗日記(稲穂小学校校長)から発見された。
いずれにせよ、これからも小樽市総合博物館のプロフェッショナルの学芸員諸氏の調査研究に期待したい。
・・・追補1、終了。
02-02.●北海道・東家の系譜
明治2年、箱館ではまだ砲煙やまず、戊申の役の敗残武士の
「伊藤文平」氏
が幼い息子を同行して、福井から勝納川岸の土場町(ドバチョウ)に上陸した。
彼は武士として武道や読み書き算数の外は他に特技はない筈なのである。
彼自らが、北の果て小樽まで来てそば屋になろうとは、恐らく夢にも考えていなかったろう。
北海道へ行けば何とかなるとの甘い考えのもとでは、武士という階級は使いものにならないしろものなのである。
「伊藤文平」氏の心は、ガラガラと音をたててくずれ落ちる封建制度に見切りをつけ、新政府が最も開発に期待を寄せていた北海道へと足を運ばせた。
彼は生活の手段として色々な職業を考えたに違いない。
しかし、芸は身を助く、彼は「そばのかつぎ屋台」を始めた。
そもそも彼が「そば切り」を覚えたのは、領主が鷹狩りの途中しばしばそばを所望し、その折りに職人がそば切りを作るのを、見て覚えたものと言う。
時代の流れとはいえ、武士と云う特権階級から「かつぎ蕎麦屋」への転進は文平氏にとって大変な決心を必要としたに違いない。
この年、開拓使札幌本府の開設が決まり、本庁舎の完成までの間、明治4年4月まで銭函に仮役所を設けて開拓使の経営に当った。
しかし、この小樽に期待したものの実態は、吹けば飛ぶよな粗末な家並と、それにそぐわない豪荘な遊郭、そして附近にたむろする無頼の徒、何よりも開拓使の役人が薩長閥に占有されている事実を目の前にして、はやる志もしぼんでしまった。
1874(明治7)年、文平氏が夜鳴きそば屋を始めるまでの辛酸ぶりを「東家百年史」ではこと細かに語っている。
そして、釧路東家三代目当主「伊藤徳治」氏の言によっても、小樽において
東家の前身である「ヤマ中」そば店
として店舗として開店したのが、初代「伊藤文平」氏の代か、二代目「伊藤竹次郎」氏の代かは明確ではない。
「ヤマ中」の屋号は、下記のように書く。
なぜ、そのような屋号なのか、命名したのかはわかっていない。
さて、その「ヤマ中蕎麦屋」の店舗場所と年代である。
二代目竹次郎氏は三代目徳治氏に対し、「妙見川畔」と話しているが、長い年月の間に勝納川、入船川畔、妙見川畔を混同した事も考えられる。
事実、年代その他を考え合わせ、三マス本店・河本コンさんの証言も考慮し、
「海陽亭に近く入船寄り」
であるほうがまちがいないだろうと謂われる。(三マス入船店主/宮村一郎氏談)
しかし年代については、何年とは特定出来ない。
現・東家総本店竹老園は、明治10年ヤマ中蕎麦屋を開業としているが、明治15年頃、入船町に「ヤマ福福本」を「高松利兵衛」氏がそば屋が開業している関係から、ヤマ中蕎麦屋の開業を推測出来る。
入船町に「ヤマ福福本」、これが後年、札幌狸小路に店を持ち北海道にヤマ福蕎麦屋ありと謂われた「ヤマ福」の始祖である。
2008(平成20)年、その札幌狸小路・ヤマ福もついに暖簾を閉じた。
さて、この「ヤマ福」は明治20年頃まで小樽で営業している。
そして、この五年間の間に東家総本店の前身ヤマ中蕎麦屋二代目「伊藤竹次郎」氏が「ヤマ福」で修行している事実である。
恐らくこれは竹次郎氏がそばの技術のみでなく、そば店舗の「経営」についての勉強も含んだもの解される。
こう考えてくると、「ヤマ中」そば店は、
「 早くて1877年明治10年前後から、1887年明治20年にかけての開店」
が考えられるのである。
また一つには「文平」氏が、1874年明治七年に「かつぎ屋台の夜鳴き蕎麦」を始め、裸一貫で独立店舗として開店するまでには、やはり十年前後の歳月が必要だ、と考えるからである。
「ヤマ中」そば店は、二代目竹次郎氏の経営よろしきを得て至極繁盛する。
が、竹次郎氏は「ヤマ中」の屋号が雨中に傘をさしているようだととして、1897(明治30)年「東家」と屋号を変え「菱井桁に東」を採用するのである。
「雨中に傘をさしている」のが理由と言われるが、明治7年にかつぎ屋台の夜鳴き蕎麦から始めて20年が過ぎ、雇用する職人も増え商売も成功し、東家ファミリーからしてみれば北海道は郷里越前から遠く離れたその東の果てという思いがありつつも、しっかり小樽に根を生やしたとの思いから「菱井桁に東」にした、と思いたい。
ところが好事魔多しのたとえもある。
三代目伊藤徳治氏の話によれば、「ヤマ中」そば店が小樽で成功したことを郷里・福井越前の親戚やかつての同僚が聞き、続々と小樽にやってくる。そして店で徒食する者、金をせびりにくる友人、何かにと應接に暇がなく、遂に小樽の東家蕎麦店をたたみ、去らざるを得なくなる。
これが1902(明治35)年頃か。
苦難のうちに小樽を去り、函館を経て、明治45年に釧路に落ち着き開店する 。
こうして伊藤竹次郎は家族共々小樽を去るのであるが、この後に色内町中央通り踏切下に「東家」の屋号で「奥出繁信」氏が開店する。
この奥出氏は、初代文平氏の弟子であった。
この、第二火防線(小樽駅から小樽運河までの中央通り)で営業されていた「東家・奥出繁信」氏と、第一火防線(緑山の手:通称日銀通り)の「ヤマ福・山本常吉」氏が、小樽で初めての蕎麦屋の組合創設の立役者となる。
奥出氏は博識と積極性で知られ、山本氏は頑固一徹で通っていてた。
この二人が手宮の「マル泉・石原」氏、色内の「丸吉・遠藤」氏、信香の「三マス・河本」氏等当時新進気鋭、やる気満々なソバ屋を誘い、組合設立の意図を語り合った。
目的は、業界体質の強化による社会的な地位の向上、価格の統一による営業の安定、そして何よりも親睦と団結。以上の項目を並べ広く区内の同業者に声をかけるが、題目はいいがどうもとなお尻込みする者が多く、当の幹部達は「時期早尚」と判断し、大同団結は先に延ばし、数人だけの寄合組合を設立し、今後のためにと「東家・奥出繁信」氏が中心になって組合規約作成にあたった。
それが1901(明治34)年といわれる。
それが明治37年国家存亡にかかわる日露戦争が勃発、戦禍の拡大とともに営業情勢が一変し、組合結成機運が高まる。
1905(明治38)年9月、結成された「小樽蕎麦同業組合」の組合長に就任する。
しかしながら、明治末期か大正初めに廃業、小樽から中国の青島へわたり、そば屋を開業しながら地元の県人会長や消防団の組長をやっていたそうである。
かくして「東家」は小樽から消えるわけである。
いずれにせよこれが、「伊藤文平」氏が、わずかの資本で現金収入を得るための便法としてやむなくはいった転業であろう。
引くに引けないこの武士の商法が、商人の商法と変わり、今日北海道はおろか日本の東家と言われる「釧路東家総本店・竹老園」の、そもそもの始まりなのである。
先年、「釧路東家総本店・竹老園」は始祖「伊藤文平」氏が明治7年小樽でのかつぎ屋台を始めた年を起点として、開業百年祭を盛大に行った。
東家の前身ヤマ中蕎麦屋に関する追記 2018年2月 文責:籔半・小川原格
さて、現在の釧路・東家総本店の前身「ヤマ中」蕎麦屋の、小樽での開業場所に関してである。
私は斑目貫一郎日記を全部目を通しているわけではない。
稲垣足穂日記(稲穂小学校校長)もである。
越崎宗一地図明治10年頃とこれら二つの日記に、「ヤマ中」蕎麦屋に関して記載があったとは聞いていない。
しかし「東家百年史」上で、
「東家二代目伊藤竹次郎氏が三代目徳治氏に対し、
(ヤマ中蕎麦屋の開業場所は小樽の)『妙見川』畔」 (注1)
としていることである。
この「注1」の「開業場所は小樽の『妙見川』畔」というのは、多くの蕎麦屋研究者や小樽の蕎麦屋を悩ませ、異論が出されてきた。
前項で紹介した「越崎宗一地図明治10年頃」をもう一度見てみよう。
1869(明治2)年、東家(当時はまだヤマ中蕎麦屋)初代・文平氏が福井越前から来樽した当時、小樽の賑わいは上記地図の左の勝納川河口・土場町・金曇町から始まっていった。
小樽高島明細書によれば
「明治元年2月の人口、永住156戸、564人、出稼80戸、215人、合計236戸、779人であるが、殆ど信香・勝納の数字である。
明治2年に後志国小樽郡となり、
明治3年4月には、信香、信香裡、金曇、芝居、新地、土場、勝納、山之上の8ヵ町を開いて「町並み」をつくるに至った。」
とある。
東家二代目伊藤竹次郎氏が、三代目徳治氏に対し、
「ヤマ中蕎麦屋の開業場所は小樽の)『妙見川』畔(明治10年前後) 」
というが、その「妙見川」は、上記地図の一番右端だ。(青色河川)
海岸沿いの家並みがかろうじてあるだけで、まだ「町並み」はとは言えないほど辺鄙な地域だ。
まだ小樽の町の実態は、「吹けば飛ぶよな粗末な家並と、それにそぐわない豪荘な遊郭」であり、やっと図12.の中央部を流れる入船側河口付近まで人家が拡張しはじめてはいるものの、現在の水天宮の丘が海岸線際まで迫っていて、人家はまばらである。
今の堺町大通りは、同地図の海岸線を後に埋立て平地を確保することになるが、明治初期はまだ埋立などはしておらず、越崎宗一地図明治10年頃では、浜小屋や漁師小屋が数棟あるだけである。
又、ウェブサイト「ジャパンアーカイブズ」の写真6の「明治7年頃の小樽有幌海岸の新屋岬」を見て頂けると、あるのは浜小屋と漁船だけという当時の入船側と妙見川の間の有幌海岸の状況はわかる。
この有幌海岸のさらに北側(余市側)の延長に「妙見川」河口が、ある。
又、この明治7~10年前後の遊郭・妓楼に注目すると、勝納川河口付近の信香町、金曇町に遊郭・妓楼は集中し、芝居小屋・星川座もその上流に位置し、前述の¸「米山ソバヤ」も「鳴海ヤ蕎麦ヤ」もこの人出の多い遊郭・妓楼・芝居小屋のある歓楽街エリアに繰り出し人びとを誘客ターゲットにし、芝居町や信香裡町で店を構えている。
1874(明治7)年に「かつぎ屋台の夜鳴き蕎麦」を開始し、上記8ヶ町の賑わいを目の当たりにしながらも、いくら勝納川沿岸エリアから北側(余市側)妙見川エリアの将来的発展を見込み、小樽の町の大火のたびに北側への大移動と発展成長を見込んだとしても、絶対失敗できない最初の店舗「ヤマ中蕎麦屋」を、そのようなへんぴな妙見川畔に開業するとは、考えられない。
又、前述した小樽最初の遊郭・妓楼の歓楽街は、1881(明治14)年5月の「金曇町大火」で、新たな遊郭は墨江神社(現・住之江)裡の畑地を開き移築される。
そして、前項で述べたように、 明治15年頃、入船町に「ヤマ福福本」を「高松利兵衛」氏がそば屋が開業し明治20年まで営業し、その間にヤマ中ソバヤの二代目伊藤竹次郎氏が経営ノウハウ取得のため「ヤマ福」に修業している。
- 明治14年の金曇町大火
- 土場町・信香町・信香裡町から町の大移動
- 繁華街の墨江遊郭への大移動、
- 明治15~20年に「ヤマ福福本」に経営修業に竹次郎が入る
そんな時期に「ヤマ中蕎麦屋」の店舗をどこに構えるのであろうか?
前述した小樽蕎麥商組合の長老・三マス支店入船店主・宮村一郎氏は、小樽の蕎麦屋調査で様々にヒアイングした結果を、新聞チラシの裏面に記しそれを残している。
その中に、
「明治二十年代、
南小樽方面は勝納川と入船川の間に川が二つ流れ、一つは若松町大通りにあ
り、一つは土場町の途中で住吉神社通りと若松町大通りとの中間あたりを流
れていた。
水は清く、日常生活水として使用していた。
土場町の坂は今より遥かに急で、現在の小樽病院のあたりは森であり、しばし
ば鹿や兎が飛び出し、秋ともなればコクワが実り沢山採れたものと言う。」
(注1)
という宮村一郎氏が「小樽の蕎麦屋史」を本格的に調査し始めた1970(昭和45)年前後、九〇歳代で存命中の「三マス本店・河本コン」さんからのヒアリングのメモだ。
このヒアリングメモで、三マス本店・河本コンさんは、
「海陽亭に近く入船寄り」
である、と語っている。
02-03. ●ヤマ福の系譜
●ヤマ福
在樽時代の「(ヤマ中)東家」と「ヤマ福」との関係に、我々は強い関心を持つ。
初代「ヤマ福」・高松利兵衛氏が来樽した年月は不明だが、小樽での開業は、明治15年頃入舟川左岸、国鉄線ガードの少し上である。
しかし、明治23年頃やむを得ない事情があって、東京の浅草に引っ越し「そば屋」を始めたと、札幌「ヤマ福」三代目「高松勲」氏はいう。
その後、明治30年以降、迎陽亭を経営した「鈴木保」氏に小樽の「ヤマ福」店舗を委譲する。
しかし、明治25年、札幌狸小路を火元とする大火があり一帯が焼け野原と化した。
「ヤマ中・伊藤竹次郎」氏は、札幌の将来性に目を付けて焼け跡の狸小路の一角を手に入れ、明治15~20年に「ヤマ福福本」に経営修業に竹次郎が入るかっての主従の間柄であった「高松」氏を東京から小樽に招き、札幌の現地を見せ「骨を埋めるなら、こここそ理想の地である」と説得し、自由に選ばせて決めこれを実現させるのである。
これが現在まで盛業を続けている狸小路・ヤマ福のスタートである。
「ヤマ福」高松氏と「ヤマ福」鈴木氏とが、小樽のそば業界に残した影響は誠に大きなものがあった。
小樽で「ヤマ福」ののれんを掲げたそば屋は一つの例外を除いて、高松氏の系統だけである。
ひとつは、ヤマ福の小樽時代にはさかのぼる。
明治17年福井県出身の「山本常吉」氏が入店、「ヤマ福」初代のもとで腕を磨く。
この人が、明治30年稲穂町方面の発展を見込んで、現在のNTT小樽支社斜め向かい「元・州和家具店」の場所に開店、再び「ヤマ福」の「のれん」を掲げる。
(のちに、この山本氏が奥出氏の後を受け、1916(大正5)年「小樽蕎麦同業組合」を改称し「小樽蕎麦商組合」の二代目組合長となる。)
もう一つは、それから下って明治40年代、第三火防線に店を出した「ヤマ福伊勢屋」橋本初次郎氏がそうである。
橋本初次郎氏は、二代目「札幌ヤマ福」そば店の弟子であり、「山本常吉」氏の後輩にあたる。
明治末期頃の開店と思われるのであるが、氏は昭和の初めより第二次大戦の最中まで小樽蕎麦商組合長としてその功績は高く評価され、組合員からも尊敬の念を持たれた人物である。
惜しくも戦争中に廃業され、古平の方へ引き上げたと言う。
この人の息子が、昭和10年代、富岡町小樽警察署の上通りに近い場所で「ヤマ福伊勢屋支店」を出した「橋本芳男」氏である。この店も本店と同時に廃業する。
以後、小樽市内で「ヤマ福」ののれんは何枚か掲げられたが、何れもこの二つの店の系列である。
では、迎陽亭「鈴木保」氏の系列はどうなったが?
鈴木氏自身は迎陽亭の経営に専念するため、明治44年、店をうなぎと寿司で有名になった「会津屋」に売却し、のれんを降ろしたが、弟子達に数々の人材を輩出した。
一人は「中井作太郎」氏で、花園町第一大通りに明治35年前後「石川屋」を創業した。 少し遅れ「小田彦次郎」氏は、花園町第一大通り辰巳通り角に「朝日屋」を開業した。 もう一人は氏名は不明だが、明治30年代後半、旧北海ホテル隣りに「高田屋」ののれんを掲げた。
この店は当時富岡町にあった金沢植物園を解体して建造したものという。
このように鈴木氏の系列には「ヤマ福」の屋号とは無縁のものが多い。
ただ一つの例外というのは「ヤマ福」吉田吉長氏で、鈴木さんとは縁戚にあたる。
大正時代第二大通り大升洋裁(元・喫茶ブラジル)のあたりで営業後、昭和に入り、公園通りに移転、第二次大戦まで営業を続けた。
これら「ヤマ福」系列の人材が、後日組合の設立・運営に大きな力を発揮することは後程詳述する。
●ヤマ福→伊佐美屋の系統
■伊佐美屋本店
大正8年の「ヤマ福・山本常吉」氏を頼り、「山本常三郎」氏が見習いとして入店。
昭和8年「ヤマ福・福本分店」としてヤマ福・本店の閉鎖後、その隣で一時期開業するのであるが、伯父と意見が合わずのれんを返上、その後丸井食堂部にそばを入れ、昭和11年花園町第二大通り学校通りり下で独立開業、名も「伊佐美屋」とし現在に至っている。
山本常三郎氏は、永年組合の要職にあり組合に尽力した一人である。
山本常三郎氏には男の子がなく、現経営者は長女の夫である宮下勝也氏。
氏は昭和33年繊維問屋に就職したが、アルバイトから伊佐美屋に入る。
氏も組合役員として活躍、小樽蕎麦商組合青年会結成の相談役となり、平成9年第15代小樽蕎麦商組合長に選出され、小樽蕎麥商組合創立百周年記念大会長という大役を果たし現在にいたる。
平成17年4月、三代目として宮下勝也氏長男・勝博氏が結婚、三代目も小樽蕎麥商組合・労働保険事務組合担当役員や青年部として施設慰問、手打ちソバ講習などで活躍、目下盛業中。
(2008(平成20)年宮下勝博氏、小樽蕎麥商組合青年部会長に就任)
http://www7.ocn.ne.jp/~isamiya/index.html
■伊佐美屋支店
昭和25年12月アルバイトとして伊佐美屋に入り山本常三郎氏に認められ、翌26年2月より住み込みとして入店したのは、後に「伊佐美屋支店」を出した「清水啓造」氏である。
氏は、戦後父親のヨーカン売りの手伝いをしていたもので、当時の一流割烹店へ卸す仕事であった。
彼は「伊佐美屋」へ入店後、昼は北海道工業高等学校(千秋高校)に通い、夜間店を手伝う。
16年間奉公の後、昭和42年11月稲穂町国道沿いの店舗で独立。
氏も組合役員として将来を嘱望されている一人であったが若くして夭逝、廃業。
■伊佐美屋分店
伊佐美屋本店にて10年間修行された「門間宗男」氏が、「山本常三郎」氏子女と結婚後、昭和55年3月朝里十字街にて「伊佐美屋分店」として独立開業。
平成4年現在の新光町。朝里・宏楽園付近に移転開業、もっか盛業中。
何れにしろ小樽では、「ヤマ福」の技術を継ぐ店は多々存在するのであるが、「ヤマ福」ののれんは全く姿を消してしまうのである。
特に山本常吉氏の場合は激情家であり、技術の面で厳格であった。
彼一代の内に多くの弟子は出したが、遂にヤマ福ののれんを分ける人物はなかった。
02-04.●三マスの系譜と石川屋
明治二十年代、南小樽方面は勝納川と入船川の間に川が二つ流れ、一つは若松町大通りにあり、一つは土場町の途中で住吉神社を通りと若松町大通りとの中間あたりを流れていた。
水は清く、日常生活水として使用していた。
土場町の坂は今より遥かに急で、現在の小樽病院のあたりは森であり、しばしば鹿や兎が飛び出し、秋ともなればコクワが実り沢山採れたもの、と言う。
明治14年5月、芝居町から出た業火はみるみるうちに小樽の主要部を焼きつくした。
世にこれを「金曇町大火」という。
このため町勢は、勝納内川畔から人船川流域へと大移動が始まった。
まず住吉停車場(旧南樽駅)ができ、飲食店が多く進出した。
勝納方面の衰微に対して、入船町は繁華街としての条件を順次装備していく。
街の中央に入船川が流れ情緒を豊かにし、劇場、茶席等飲食店も多く、遊郭へ通う道筋でもあり、川の上に橋を渡し露店まで出て、その賑わい振りは東京の両国にも劣らなかったと言う。
この地にそば屋進出するのもまた、当然であった。
後述の「三マス上坂」の店は、土場町のほぼ中間にあり、この川の近くの井戸水を使用していた。
若松町へ移転後もこの水を汲みに毎日通ったものと言う。
明治18年、「河本徳松」氏が石川県より来樽、入船町「ヤマ中」そば店を振り出しに「三マス上坂」へ入る。彼の秀い出た経営能力は、この店をそば専門店として立派に育てあげ、同23年番頭に昇格、同24年には経営全般を一任され、同30年結婚を契機に(この時既に若松町(現住吉)に移転していた)店舗を買収し、文字通り三マスの店主におさまった。
この河本氏が、小樽のそば業界に与えた影響と言うものは、前記「山本常吉」氏同様非常に大きなものがあった。
この二人は共に慶應三年に生まれ、郷里は福井県と石川県の隣り同志の出身で、そば屋としても同じ年代からその道に入り、それぞれの行き方の中に特色を出していく。
これはのれんと言うものを越えて心理的な面と営業の方法そのものに対してであり、後のそば屋の営業に大きなす示唆を与えるのである。
●三マス支店の系譜
この河本氏が明治36年石川県に帰郷した際に、二人の少年を連れ帰る。
これが「坂本甚作」氏であり、彼は一時「現長(割烹)」に入り、和食を勉強し後、「石川屋」へ入る。 もう一人は、河本氏が自分で使用し「宮村嘉一郎」氏と言い、大正7年緑町高商通りに「三マス支店」として独立開業する。この二人は良きライバルとして後年組合の枢要な地位にあり組合運営に寄与する。
●入舟町三マス支店
終始繁昌するが、昭和17年「宮村嘉一郎」氏が逝去し、その後を長男「宮村一郎」氏が相続する。
しかし第二次大戦が鮮烈を極め出征、終戦直前疎開、戦後再開するに際し、母「アサ」氏に店を任せ、昭和25年に「入舟町三マス支店」として独立開業する。
氏は、昭和60年小川原副理事長亡きあと北麺飲組合副理事長に就任、現在は北麺飲だより機関誌編集長の要職についている。
●商大通り三マス支店
「アサ」氏逝去後、宮村一郎氏の弟・「宮村二郎氏」が商大卒業後「商大通り三マス支店」を引継いで店を繁盛させたが、惜しむらくも若くして夭逝。
現在は妻「さえ子」氏と娘さん親子で店を守り抜いている。
又、「河本常蔵」氏は札幌郡広島町出身、昭和二年「三マス本店」に入店、昭和8年5月、色内川筋「カネ作本店」林久平氏の店を「い抜き」のままで買い取り、「三マス第二支店」として独立開業するが、第二次大戦中疎開し廃業、戦後は職を転々としたが緑町大通りの元・生協前にて営業したが後に廃業している。
戦後一時期ではあるが、「都通り三マス支店」を出したのが、経営者「松羅リウ」氏、この店は後に安宅氏(現・安宅儀式店先代)に委譲したのであるが数年を経ずして閉店する。
■三マス→石川屋の系統
明治36年「中井作太郎・栄松」一家が石川県より来樽する。
中井氏は河本氏と同郷であり、一家は入船町に落ち着き、豆腐屋をやり一家を支えていた。これは河本氏との同郷の誼みもあり、「河本徳松」氏の成功の姿に多分の影響を受けたことが考えられる。
後、中井氏は明治34年ころ「石川屋」として花園町第一大通りに独立する。
又、昭和の初め、中井作太郎氏の末弟である栄松氏が、入船町瀬戸病院上に「朝日屋支店」を開店している。
●丸井印石川屋
河本氏が帰郷するに際し、明治36年、「坂本甚作」氏を連れ、来道す。氏は、大正10年、稲穂町の発展の著しいのを見て電気館通りに「石川屋支店」を開店独立する。
大正3年、「山本喜三次」氏が石川県から来樽、十六才の時である。「石川屋本店」に入店、氏が二十七才、大正14年10月若松町大通りに「石川屋分店」を開店独立、後に廃業している。。
「石川屋本店」は二代目中井栄作氏の代になり、経営の行き詰まりから廃業、誠に惜しい事であった。
「石川屋支店」の「坂本甚作」氏は子息・「坂本 章」氏が店を引継ぎ、本店の廃業を考慮し「石川屋支店」から「丸井印石川屋」と改称、手腕家であったが、惜しくも四十二才の若さで夭折、妻「登美枝」さんが経営、女手ながら市内でも有数のそば屋として営業され、今日その子息「坂本修一」氏が後継となって盛業中。
修一氏は小樽蕎麦商組合青年会初代会長をつとめ、現在、小樽蕎麦商組合副組合長の重責を担う。
平成15年2月、4期8年の第15代宮下勝也組合長の後継として、第16代小樽蕎麥商組合組合長に就任、現在に至る。
●新富屋
「牛腸甲治」氏創業。初めは魚屋を営んでいたがこれでは将来がないと、近所にそば屋が無いのを見込んで、転進を決意し「石川屋」へ通い。後「石川屋分店」を出した「山本喜三次」氏に師事、そば打ちの技術を習い、大正14年4月「新富屋」を開店、「牛腸新太郎」氏が継ぐ。 甲治氏並びに新太郎氏は長年の間、組合の要職にあり功労者であったが廃業。
●信濃屋
「立花芳二」氏創業。山形県出身、昭和35年10月「石川屋支店」より独立「信濃屋」と名づけ開業。潮見台一丁目潮陵高校正門前という場所がらお客は教員・高校生が主体である。氏は永年組合役員として中枢の地位にあり活躍されたが奥様の体調が悪く廃業。
今もなお小樽蕎麦商組合親睦会員である。
●辰美らーめん
藤井栄太郎氏創業。昭和32年1月都通り「石川屋支店」へ入店。昭和39年9月石川屋退店、当初は蕎麦屋開業を計画したが、資金が不足。やむなくラーメン屋となる。開業では一年先輩の「信濃屋・立花」氏の教えを受け、昭和39年11月「辰美らーめん」開店後、「福来軒」和山(現、和弘食品創始者)社長の指導を受け、味噌ラーメンを主力にし、現在に至っている。
小樽蕎麦商組合の調理師会担当役員として永らく活躍中。
02-05.「マル泉・石原」の店と手宮
手宮方面は、小樽の中でも石山を境にして独自の発展を遂げた地域である。
小樽に区制が実施されたのが明治33年、これ以後船着き場を中心として急速に発展する。 船員のための飲食店が増え、狸小路界隈を中心として私婦がはびこりその対策に腐心する。
その結果、当時の区長は公婦街を新設することで風紀、その他の問題の解決を計り、ここに南廓に対し、北廓と称する貸座敷業指定区域を手宮川上流現梅ヶ枝町に設定する。
明治41年である。
●マル泉・石原
手宮地区は明治13年鉄道開通の基点になると共に物資の集散地として、より重要視され急激な発展を遂げる。
問もなく飲食店が林立しはじめ、その中にそば屋があり「マル泉」はその店を引き継いだものという。この店は、現在の中央バスターミナル付近で営業し、以後手宮地区を代表する蕎麦屋として、後年まで安定した経営を統け、地元住民から「泉屋さん」と親しまれた。
●マル高
高橋忠男氏創業。岩手県出身、昭和23年10月、錦町十一番十六号にて飲食店開業。そば販売のため「マル太・加藤岩五郎」氏や「新富屋・牛腸甲治」氏の世話で「マル井食堂部」の職人にとして入り、後、樺太へ渡り、帰樽後一時「伊佐美屋」の職人ともなった鏡氏(元、ニュー三幸勤務)にそば打ちの技術を習う。昭和28年よりそばを出す。
マル高はそば屋としては三代目に当たり、現在の店はマル泉そば屋の蔵であった。
この「マル泉」の前にもう一代そば屋があり、またマル泉の子孫は手宮公園の下に現存していた。この初代の開店は明治20年以前であることが考えられる。後に、廃業。
02-06.色内町と蕎麦屋、「−福(イチフク)」と色内(イロナイ)
明治15年を契機として小樽の町勢が急激に北に拡大、そば屋の進出する素地もまた急速に整備されて行くのである。
が、当時の港町から手宮へかけては、海岸沿いに一本の道路があるに過ぎず、その両側に商店や民家が立ち並び、鉄道線路から山側は人家も珍しく、営業の立地条件としてまだまだ後背地が不足、客の需要に不安があり、明治二十年頃の間には、そう多くのそば屋が出来たとは考えられない。
そのなかで「丸吉・遠藤由太郎」というそば屋が色内町に出現する。
これは恐らく明治十五年から二十年の間に開店したものか。
● 一福
「一福」の始祖「森田伝蔵」氏が、色内町(旧東京銀行小樽支店附近)の「丸吉・遠藤由太郎」氏蕎麦店から独立したのが、明治27年、色内川右岸川口付近であった。
明治37年、有史以来という小樽の大火は、この主従の両店舗をも猛火は飲み込む大惨事となった。
後、現地点に移転開業。二代目「森田哲央」氏は戦後の新組合の第11代組合長を昭和38年から44年まで永年にわたり勤めた功労者であり、「小樽麺業界の歩み」の著者でもある。
三代目「森田伝一」氏に引き継がれ店舗をリニューアル、伝一氏亡き後、現在は市内でも現存する最も古い店の一つとして「伝一」氏敦子夫人と子息の四代目「森田一正」氏とで親子仲良く盛業中である。
明治の末頃、手宮旅客駅広場の前に、「一福中野」と言うそば屋が出来た。 この店は「森田伝蔵」氏の妻の兄の経営になるもので、中野植物園の経営主である。この店は大正9年「飯塚政太郎」氏に引き継がれるのであるが、第二次大戦と共に廃業する。
これとは別に明治40年頃、入船町川畔に「三マス」のあとを、一福の名称でそば屋が営業されていた。この店は森田氏とは全然関係なく、割烹・迎陽亭の関係者で鈴木某という者の経営であったらしい。
02-07.稲穂町の蕎麦屋、カネ作
小樽市史によれば稲穂町の語源は、元稲穂沢と言い、「イナウ」というアイヌ語から来ているらしい。
色内町の区域内で「色内裏町」と呼ばれたが、明治14年7月新たに「稲穂町」という町名が付けられ、竜宮神社境内には、アイヌの霊地があり、イナウが捧げられていたから、町名とした。
■ カネ作
「カネ作」の創始者は「林栄吉」氏、青森県黒石の出身で札幌で酒類雑貨商を営んでいたが事業に失敗、小樽入船町のガード上当たりに落ち着き、当時全盛時代の住之江の新廓の遊び人相手に「かつぎ屋台」を始める。
これが明治27、28年頃という。
明治29年、住之江町大火のため商売にならず閉店、色内川付近に大きな飯場があるのを見込んで、色内川畔に移転、労働者相手に屋台そば屋を始める。
当時は、手宮高島方面まで屋台を担ぎ商いをしたものと言う。
大正3年頃そば店開業、その傍ら屋台も担いだものである。
二代目が「林久平」氏、久平氏の弟子が埼玉県出身の「小林光太郎」氏で、大正12年長橋町に「カネ作支店」として独立開店、現在後継「小林育夫」氏が経営中。
これ以前に、大正10年「久平」氏の弟「林栄作」氏が竜宮神社下国道筋で「カネ作支店」として営業していたが、昭和8年本店の「久平」氏が家庭の事情のため廃業、本店の営業が断絶したため、弟の「栄作」氏が「本店」の名跡を継ぎ、後、子息「林幸三」氏が経営繁昌、氏も組合幹部として、重要な仕事を分担したが夭逝、現在はその子息「林 政範」氏が経営、盛業中。
氏は小樽蕎麦商組合青年会創設会員で、現在小樽蕎麦商組合副会計の要職をつとめる。
02-08.手宮の蕎麦屋と、ヤマカ(かめや)
■ ヤマカ
加藤武夫氏創業、出身地福島県で呉服店に奉公、12年間勤め年期明けて大正9年北海道へ渡り、小樽で丸井、三越デパート等へ呉服類を入れていたが思わしくなく廃業。やむなく一時期手宮での石炭かつぎから浜の荷役等重労働に就くが、間もなく大正11年福島へ帰郷、兄のもとで製麺の技術を習い大正13年再来樽、「カネ作支店」小林光太郎の指導により、よたかそば打ちの技術を習得、かつぎ屋台を始める。最初は、そば・うどんを扱い、屋台の最盛期の稲穂町時代には売り子が五、六人二階に寄宿し賑やかなものだったという。これらの売り子は何れも、本州での食いつめ者が多く、その日その日の寝床と食事にありつければ、銭などどうでもよいという連中で、時には売り子同志で警察の厄介になる事もままあったという。加藤氏自身は夕方から出発、帰りはいつも昼近くなったという。
今日では想像も出来ない重労働であったことであろう。
加藤氏四十二歳の時、厄払いの行事を盛大に行い、ラ−メン屋台に転身、リヤカ−を引いて夜の町を売り歩く、資金も出来、大正11年、現在の場所に落ち着き、最初はラ−メンだったが後そばうどんを併せ商い、順次品数を加え現在にいたっている。
現在は、加藤美栄子の経営で、その子息三代目「加藤武美」氏は、活気ある手宮銀座街の青年会の一員で、「十間坂・白石和男」氏と共に「手宮・いかでん祭り」を立ち上げた際の実行委員の一人である
02-09.「マル佐」と「マル太」
明治も25年過ぎから町勢が次第に山の手方面と言っても海岸に対しての山の手であり、稲穂、花園地区を指すのだが、稲穂町では明治26年から27年にかけて幅6間長さ414間、花園町では520間の道路が開通している。
これは、恐らく現在の第一大通りに当たるものではなかろうか。
当時は道路にしろ、宅地にしろ、地主が自費で開発整備したもので、後必要なところは公道として寄付を強要したり、他の土地と交換して整理したという。
明治31年までに官費三万余円を投じて補修を加え、ようやく稲穂、花園町方面の交通体制整った。
●「マル佐」の系統
「西部吉次」氏が花園町第一大通りガード下で「マル佐・加賀屋」の店を出したのは、明治33年前後の事と思われる。別に、明治31年過ぎ頃、「マル太・加賀屋」小林と言うそば屋が入船川筋にあった。
現更科、加藤三郎氏の母堂マツエさんの話によれば、「マル佐」と「マル太」は兄弟で石川県の出身である。この「マル佐加賀屋」へ明治38年頃高等小学校を出たばかりの「岡野勝四郎」氏が入店、大正11年「マル佐加賀屋支店」として入船町ガード上で独立する。
昭和20年一時閉店、戦後「マル佐」の屋号が悪いということで「マル勝加賀屋」と印を替えて、「岡野栄夫」氏の下、住之江町で盛業中であったが、平成12年惜しくも廃業、氏は永らく小樽蕎麦商組合役員を務め、副組合長としても活躍された。
●マル太の系統
一方、「マル太加賀屋」は昭和に入ってから店舗を他人に売り(だるまや)廃業し、札幌に移転する。
この前に秋田県出身の「加藤岩五郎」氏が、職を求めて妙見川畔の「藪善」のそば屋に入るのである。
その後、恐らく明治の末頃か大正の始め頃であろう、入船川畔の「マル太加賀屋」に移り奉公する。
その後、大正10年過ぎ、「マル太」ののれんを貰い、稲穂町富士館向かい橋本鉄工場で独立したものの、場所が悪くこの場所を断念、昭和の初め頃、入船川畔、坂田屋旅館下隣りに店を移転、間もなく「マル太加賀屋」の本店は妙見川畔「大△そば店」後へ移転。その直後、花園町の「マル佐・加賀屋」西部氏が火災に会い全焼、現在の入船町二の五十一北海道銀行のあたりに移転して来る。
昭和10年、「マル太」の加藤氏は電気館通りへと移転、「マル佐・西部」氏は第二次大戦中店を仕舞い本州へ引き上げた。
戦後「マル太加藤岩五郎」氏の後は「加藤岩雄」氏が引継ぎ嵐山通りで営業、弟の「加藤三郎」氏は昭和28年都通りで「更科」ののれんで開業、氏は昭和57年入船町の現在地に「更科本店」を構え、更に平成12年3月「都通り更科」は「加藤岩雄」氏経営であった「マル太加賀屋」跡に移転新規開業し、三郎氏が「更科本店」、その長男・加藤久雄氏が「更科嵐山通り」店を親子で繁盛させてる。
加藤三郎氏は、永年小樽蕎麦商組合役員を果たし、昭和56年第13代小樽蕎麦商組合組合長、平成7年北麺飲組合副理事長に就任、小樽食品衛生協会副会長も務めている。
02-10.「かつぎ蕎麦屋」の元締とヤマ安
いわゆる「かつぎそば(屋台)」は、別名「夜鳴きそば」とか、「夜鷹そば」ともいわれているが、明治の初期から存在していたことは確実である。
ただそれが明治以前まで遡ることができるかどうかの決め手は、鰊場への直接的な入り込みと、明治以前の石狩の鮭場所と小樽の鰊場所との季節的なずれによって生じる相互関係、つまり漁期の相違によって遊興施設、飲食施設を移動させたという事実の中に、あるいは屋台そばの実績があったのかも知れない。
しかし、残念ながらそれらを示す確実な情報を我々は持ちあわせてはいない。
この時期に近いものとしては、唯一口伝が伝えるのは「伊藤文平」氏、明治7年開業だけである。
そして、この頃の「屋台そば」は生活の糧を得るための個としての営業形態にすぎなかった。
それが明治の終り近くなると、復数の売り子(かつぎ手)を雇い入れての一つの企業体へと生長した。
●ヤマ安
その代表格が、「ヤマ安」安藤儀助氏である。
明治45年頃、「安藤儀助」氏は親子四人で福島県から移住、信香に落ち着く。初めからかつぎ屋台の元締めとして売り子を雇い、歩合制をとる。安藤氏自身も、そばの売り子に出て屋台をかつぎ、町中では声が出ず、町外れ屋並のまばらなところでやっと声が出たという経験の持ち主であった。
大正から昭和にかけて市内を転々とし、昭和5年から10年まで小樽駅前小田整骨院向かい小路に落ち着き、この時、仙台出身の千葉兵助氏が入店、四年間同居し、この間「千葉兵助」氏は昭和6年より公園通りに屋台を出し、昭和10年花園町北洋相互銀行付近に店舗を持つが火災に会い、昭和12年東宝劇場の向かいに「ヤマ安支店」ののれんを上げるのであるが、終戦後しばらく営業を続けていたが事情あって廃業する。
安藤氏は昭和10年、稲穂町梁川通り現在地に「ヤマ安」を持ち、屋台はやめるのである。
終戦後製麺屋に転向したが、昭和47年そば屋を再開、安藤滋氏が後継し、永らく北麺飲組合小樽支部会計の要職に就くが逝去、子息の現店主「安藤彰啓」氏は丸井食堂部で修業中で跡を継ぎ、即座にリニューアルを図り盛業中、現在小樽蕎麦商組合青年部長として活躍中。
現在はすでに廃業しているが、朝里温泉の「ヤマ安・佐藤欣治」氏は「千葉兵助」氏の弟子である。
このヤマ安のかつぎ屋台しての最盛期には、売り子だけで十名を越えたものという。
その上、注目すべきは、何よりもかつぎ屋台のそばの特徴が極めてきわだち、ヤマ安だけに留まらず、カネ作、ヤマカと共通したものがあるのに驚くのである。
純よたか粉による生粉打ちを紹介すると、
「つなぎは黒大豆。前日水につけ、翌日スリコギで荒くすり、皮を取り、後、豆乳状になるまですり、水で薄めて流して使用する。
粉は半分を熱湯をかけさまし、半分を豆汁でねり、両方を併せてのし、切る。
このようにして打ったそばに、どのような利点があるかというと、玉そばとして置いてものびずらく、ゆで上げて数時間を経ても歯ごたえがある」
ことである。
ヤマ安では、このよたかそばと鍋焼うどんの屋台を天秤でかつぎ、明治45年ころで、そば三平皿で一杯二銭で売っていた。昭和に入ってからの歩合制は一個売って売り子の手取りは一銭五厘であった。
そして「返し」を別に竹筒に入れ、客の目の前で適量使用し、客に問われればうま味の素(魔法の汁)だ、位に答え客を感心させたものだという。
02-11.妙見川畔の蕎麦屋と、出雲屋
■ 出雲屋
佐藤寅吉氏創業、妙見川の見番全盛時代、大正10年前後は見番だけで三っあり、小樽の芸者四百数十名は妙見川見番に所属していた。当時国鉄ガ−ドから下だけで割烹、ビァガ−デン、そば屋等三十件を数えたという。
出雲屋は、明治39年開店、佐藤寅吉氏は島根県出身で、のれんと中身は少々違いそばは出さず、その全盛期は料理が主力で、正月ともなれば当時有名店であった割烹に劣らぬくらい芸者衆が寄り、繁栄を極めたものという。
また春、高商の新入生が入学する時期には学生が多く客となり、会合の場所でしばらく使われたものである。
第二次大戦中疎開、昭和33年妙見川畔でそば屋再開、のち廃業。
●お願い:
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