小樽蕎麦屋ルーツ探訪 小樽の蕎麦屋百年 四
04.小樽蕎麥商組合の設立
04-01.同業組会から蕎麦商組合へ
大正5年、初代組合長奥出氏は、第一次世界大戦中中国の青島へと出国した。
組合長を失った組合は統制力を失ない、一時瓦解の運命を辿った。
その間の消息について、山本文一(故人、明治41年一大正9年まで「ヤマ福」山本常吉氏に勤務)氏は次のように語った。
「当時組合員中でも主軸であった色内町の「丸吉」遠藤由松、稲穂町「ヤマ福」山本常吉、第三火防線の「ヤマ福」橋本初次郎らの諸氏が、「もり、かけ」5銭の売値を4銭に割り引いて売り出し、物議のもととなった。
その結果、連日「朝日屋」小田彦次郎氏や「石川屋」中井栄松氏ら数人が、山本常吉氏の店へ押しかけ強談判が続き、このため「ヤマ福」の店は商売にならず、これも組合が無力故との事で、両者の間に組合再建の話し合いがつき、取りあえず、蕎麦製粉業界の助力を仰ぎ、当時の蕎麦製粉業者の雄・マル川岩崎製粉所を筆頭に区内各製粉所から多額の金品の寄贈を受け、小樽倶楽部で、組合再建総会を盛大に挙行した。
この時の出席業者90余名で、組合長として「ヤマ福・山本常吉」が90票以上の得票で選出されたという。
この時に「小樽蕎麦商組合」と名儀が変更され、決議事項として
1、物価の安定
2、売価の統制
3、組合員の融和と親睦
がとりあげられた。」
と。
小樽蕎麦商組合創立十五周年記念式典で組合員に贈られた記念品、銅の水差し。
写真提供は、帯広在住坂口剛氏。御祖父が、第4代(昭和5年~昭和6年)小樽蕎麦商組合長・坂口虎次郎(福井屋)氏。
小樽蕎麦商組合100周年紹介新聞記事を見てわざわざ現物を持参いただいて拝見させていただいたものです。
04-02.海外進出第一号と大戦景気
前述の奥出氏は、その後中国青島にわたり蕎麦屋を開業する。
小樽の蕎麦屋の海外進出第一号であろう。
このように、第一次大戦は、日本中を戦争景気に押し上げ、小樽の蕎麦業界もその例外ではなく、戦争景気を謳歌した。
明治39年妙見川畔で「出雲屋」を創業した島根県出身の故・佐藤寅吉氏の談では、
「妙見川の全盛時代である大正10年頃になると、「見番」だけでも3つありまして、小樽花柳界芸者数四百数十名の半数が妙見川見番に所属していました。
当時、国鉄のガードから下だけでも料理、割烹店、カフェー、ビアガーデン、蕎麦屋等30余軒、市内に沢山あった豆撰工の女工が指にダイアをはめ、街を闊歩したのもこの頃でした。
女工の月給が六十円、堺町・色内の問屋の前には毎朝表戸が開かない内から雑穀の仲買人がどこからともなく集まり、二人三人とたむろし、これまたどこからともなく情報を入手して財布が空欠でも、売った買ったで結構商売になったと聞きました。
蕎麦屋も川に沿って数軒あり、
・大△(ダイウロコ)松山
・藪善
・三國屋
・出雲屋
があり、山田町の入口・河野呉服屋の上並びに、
・ヤマ吉吉田屋
がありました。」
と、述べている。
04-03. 大正時代、業愛会の発足と消滅
大正時代に入ると共に、稲穂・花園町地区からはみ出した人口は、緑、富岡、入船町上部地区、奥沢、長橋等の山の手方面から周辺地区へと、序序に浸透し町並みを広げていく。
特に富岡町は市の中心部に近く、その地形から高級住宅街として広壮な邸宅が立ち並び、緑町は一般住宅地として将来を嘱望され、早くも大正7年暮れ、
「三マス支店・宮村嘉一郎」が高商通り(現・商大通り)
に独立、数ヵ月を経ずして
「常盤屋・岡部捨一郎」氏
が、緑町大通り中間点あたりに開業、更に裁判所前に
「水戸屋・堀江金治」氏
が大正11年頃開店する。
しかしこの頃でも、緑町第一大通りと、第二大通りの間は空地が多く民家はまばらであった。
この裁判所は、小樽区域札幌地裁小樽支部が併設されたもので、明治39年色内町より緑町へ移転したものである。
明治30年当時、緑、富岡地区は何れも稲穂町番外地として人家もなく全く山と雑草地のみであり、明治20年頃には現在の緑町大通り付近に競馬場が出来ていたというから驚きである。
その稲穂町の名残りとして、最上町の火葬場を、以前は「稲穂火葬場」と言っていた。
緑町一帯は主として、木村、早川両家の所有になるもので、開発のテンポも割と速く進行する。
こうして富岡地区は、余りにも高級住宅街がそろいすぎて、そば屋の立地条件に合致せず、大正時代には遂にそば屋の開店を見ずに終わるのである。
更に、長橋方面に目を移せば、明治30年代で塩谷街道も下手では町並みを形成していたと言う。
大正時代に入ると、色内川添いに町は奥へ奥へと伸展し、大正13年には長橋地区の発展を見込んで「カネサク支店・小林光太郎氏」が独立開店する。
次に、旧小樽方面入船町から信香、若松、奥沢町へ顔を向けると、大正14年、
・新富町で「新富屋・牛腸甲治」氏
が、新規開店。
僅かに後れて
・若松町大通りに「石川屋分店・山本喜三郎」氏
が独立開業、奥沢町も大分奥まで民家は延びていたが、
・奥沢小学校の下大通りに「かぎや・鍵屋ミサオ」氏
というそば屋があったが、この店もこの昭和に入ってからのものである。
入船町から山の上、住の江町にかけて南小樽駅(大正9年改称)を中心として、一大繊維問屋街が大正年間に形成される。
この辺一帯は大きな変貌をとげ、地方からの人の出入りも激しく、入船川岸を主として数件のそば屋が乱立していた。
大正11年5月、ガード上、海に向かって左側に
・「マル佐加賀屋支店・岡野勝四郎」氏
が独立開店する。また双葉高女の裏、第一大通りに
・「新屋・大鷹新太郎」氏
の店があったが、この店の開店は大正か昭和か不明である。現国道以奥は、都市化は進みつつはあったが、わずかに
・入船町大通り育成院上がり口に「渡辺」
というそば屋があったことが確認されている。
そば屋の進出には、未だしの感であった。
・港堺町方面では、「志んや・井上常一」氏
が遅まきながら問屋を相手に開業する。
・花園町では第二大通りの「萬盛庵・森太治郎」氏
・「三盛庵・桑崎シナ」氏、
・第一大通りでは「浅草軒・久保源次郎」氏
この店は小樽の中華そばの草分けであろう。
稲穂町では
・旧電報局裏に「瀬戸辰蔵」氏
が開業、第二大通りでは、
・入船町に「マル駒・駒井テフ」氏
・梁川通りでは「日の出屋・来島サク」氏、
駅前では
・「三福・内海宗策」氏、
第三火防線に近く第二大通りに大正三年、
・「カネサク・とも栄、林栄作」氏
が開店する。
手宮では、大正9年「一福・中野」を引き継いだ
・「一福・飯塚政太郎」氏、
更に海岸埋立地の運河前に「窪田治雄」氏、この店の開店はもっと古く明治時代であるかも知れない。
●常盤屋と水戸屋
緑町の商業高校の裏山のあたり無名山の中腹に戦前まで、正午になると時を知らせる午砲の音が市内にとどろいたものである。私たちは子供のころこの山をドン山と呼び、裁判所はこの山の裾野、緑町第一大通りに面して古めかしい威容を見せていた。
「常盤屋・岡部松次郎」氏が、石川県河北郡から金沢市のそば屋でそば打ちの技術を修行、小樽に来、緑町に開店したのは大正8年春のことであった。
当時はまだ緑小学校もなく、大通りの両側を除いては、人家はまばらだったという。昭和にはいり廃業。
●水戸屋
「堀江金次」氏創業。茨城県出身、「石川屋・坂本甚作」氏の指導で技術を覚え、当時緑町にあった小樽区裁判所前で「水戸屋」を開業、小樽拘置所が併置されていたため、差し入れ等が多く特殊なそば屋としての存在であった。
堀江氏の死後後継者がなく、昭和40年代初め廃業する。
●業愛会
この会は大正中期、「小樽蕎麦商組合」に対抗する組合として組織され、会長は稲穂町・岩崎製粉所の裏手に営業していた屋号「入船」の前田氏という。
屋台そば(夜鷹そば)を営む蕎麦屋が中心で。ヤマ安、ヤマカ、カネ作等が加入していた。
昭和に入り、終戦後、食品衛生法により屋台による野外での食品販売が禁止されるとともに消滅した。
04-03.共栄会の発足
大正8年、組合員有志により物資共同購入と会員間の親睦を旨とした小組織「共栄会」が発足した。
この会は当初から会員を15名内外に限定し、会費を積み立て、各種の研究や国内研修旅行の費用としていた。
発足時の会員は、
- ヤマ福山本
- 出雲屋佐藤
- カネ坂福井屋
- 藪善
- 一福森田
- 大△(ウロコ)松山
- 朝日屋小田
- 加賀屋西部
- ヤマ福橋本
- 三マス河本
- だるまや窪田
- ○泉石原
- ヤマ本北村
- おかめや・石川屋中井
- 石川屋坂本
であった。
その後、廃業者や脱会者がで出たため、
- 三マス宮村
- 一福飯塚
- 朝日屋中井
- 常盤屋岡部
の各店が順次入会した。
これらの各店の顔ぶれは何れも大正期から昭和期の第二次大戦までの組合運営の要となる。
この会も満州事変、支那事変とエスカレートする戦争と統制経済の色を益々濃くする時代に存在意義を失い、昭和14年消滅した。
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